
Project no.32
ボカロさんぽ 第4弾
ヌル/幸世界 - 催花雨に濡れる、閉じたループの反復
今回は ヌルさんのテトSVのオリジナル楽曲『幸世界』です。
タイトルの漢字表記「幸世界」は、一見すると幸福にあふれる世界 を意味します。
しかし読み方は「しあわせかい」とされ、口語表現「幸せかい?」という問い掛けになっており、
曲中でもサビで「それって幸せかい?」と主人公が自問するフレーズが登場します。
曲を聴き進めるうちに、このタイトルの問いが物語の核心であることに気付くでしょう。
なにかあればX等でコメント下さい
目次:
##歌詞の概要 – ループする夢の世界への逃避
##幸世界とは「ループに抗いきれない世界線」
##哲学的観点から彼女のユースタシーを解釈する
##主人公像の再定義
##おわりに - 時代性との共鳴と、私たちへの問い
## 歌詞の概要 – ループする夢の世界への逃避
「幸世界」の歌詞は、現実の孤独や虚しさから逃れて理想の夢の世界に浸る主人公の心理を描いています。主人公は現実で満たされない心を抱え、過去の幸せな記憶を繰り返す幻想の中に身を沈めています。しかし、その幻想世界はあくまで偽物(ハリボテ)であり、しかもそれは世界線が繰り返されるものであることが示唆されます。歌詞中での繰り返しと世界線越えのモチーフをいくつか引用します
どうにもこの世界は
駄目だ、駄目だったらしい
総創再生
憧れの先輩と出かけたあの日を
またまた繰り返しているみたいなんだ
「総創再生」というループ世界の始点への回帰を想起させる表現、「また」だけではなく「またまた」と二重で繰り返し、一度や二度ではない、自覚的なループが発生していることを聞き手に示唆するほか、「みたいなんだ」と曖昧な語尾によって、主人公が世界線の変化にうっすら気づき始めている、あるいは「実際には気づいているが、あえて選択的に気づかないふりをしている」ニュアンスを漂わせています。
私とわたしを繋いでる
それを理性と呼ぶらしい
この節はまさに「私とわたし」「理性」と「感情」の並行存在のメタファー。理性を通じて「世界線を越える観測者の私B」が、幻想の世界に溺れる「わたしA」をつなぎとめているのです。この対比には「幸せだった世界」と「今の孤独な現実」のギャップを強調しながら、夢に取り込まれた意識と、それを見下ろす冷静な意識という構造を描いています。
未来も過去もない
ハリボテであることの美しさが
味蕾を刺激する
この表現は、物理時間の概念そのものが機能停止している世界を示唆しています。「未来も過去もない」というのは、単なる失意ではなく、ループ構造の中で時間が意味を失っている状態。さらに「ハリボテであることの美しさ」という一節には、現実よりもよくできたシミュレーション世界の誘惑というテーマも感じられます。ここは、まさに「幸世界」がわたしAのための並行世界である可能性を示唆するポイントです。
## 幸世界とは「ループに抗いきれない世界線」
歌詞の構造自体、さきほど挙げたように時間の円環や世界線のループ構造を想起させます。物語はまるで終わらない夢の中で堂々巡りをしているようです。「またまた繰り返している」日常、そして最後に訪れる「眠る」という幕引き――これらの反復するモチーフは、聞き手に時間が閉じた輪となっている印象を与えます。まるで主人公は夜毎に同じ夢を見ては目覚め、また眠りにつくことで同じ世界をループしているかのようです。
この循環構造は、日本の物語で言えばシュタインズ・ゲートや『魔法少女まどか☆マギカ』といったループものの作品を思い起こさせます。それらの作品では、主人公たちは時間を遡り何度も世界線をやり直すことで運命に抗おうとします。たとえば『シュタインズ・ゲート』では主人公がタイムリープマシンで過去に干渉し、絶望的な未来を変えようと試みますが、収束する世界線によって悲劇が繰り返される。『まどマギ』では暁美ほむらが大切な人を救うため時間を巻き戻し続けます。しかし『幸世界』の主人公は、それらとは表裏の関係にあります。彼女もまた「選び直しの可能性」に気付いている点では同じです。歌詞には「初めからわかってる」とあり、彼女は自分の置かれた幻想の性質を理解しています。つまり現実に戻る=別の世界線を選び直す道があることも本当は知っているのでしょう。しかし彼女は敢えてそれを選択しないのです。ループからの脱出を目指すどころか、ループの中に留まることを選ぶ──ここに構造的な捻れ、パラドックスが生まれています。まるでタイムリープもので主人公が「運命を変える」ボタンに手をかけながら押さずにいるような、不思議な停滞感と矛盾です。
「覚めるには早いかな」は、「わたしは夢を見ていると自覚しているが、今はまだここにいたい」とする猶予の宣言。一方「混ざり合えたらいいのに」は、「夢と現実の間に橋がかかればいいのに」という統合への希求。
いまはまだ決断の時じゃない(夢を終わらせたくない)、でも、夢と現実が交わらない以上、この世界線では前に進めない。それでも今はまだ、「ふわふわ溶けていく私」でいたい。それをユースタシー=水位の変化が表現している。
この構造的矛盾こそが『幸世界』の物語の大きな特徴と言えます。主人公は観客にも等しい視点で自分のループを認識していながら、それでもなお同じ分岐に留まるのです。本来であれば、同じ未来を繰り返す物語はどこかで分岐しなければ物語的カタルシスが得られません。しかし彼女は分岐しない選択を選びました。これは構造上の停滞であり、本人も「それでもどうにもならないよ」と自覚している。それでも、停滞を受容する主体として物語の中に居残る彼女の姿が、かえって強い印象を残します。閉じた円環に安住するこの構造は、ループものの常套である“脱出”や“打破”とは逆方向のアプローチで、聴き手に不思議な余韻を与えるのです。
## 哲学的観点から"ユースタシー"を解釈する
『幸世界』の歌詞には、永遠に繰り返される世界への戸惑いと誘惑が描かれており、これはニーチェの「永劫回帰」やクンデラの提示した「重さと軽さ」の対比と深く共鳴します。
まずニーチェの「永劫回帰」は、「この人生を何度でも繰り返し生きる覚悟」を問う思想です。逃げ出すべき輪廻ではなく、繰り返しを肯定的に引き受ける強い意志を促す挑戦と言えます。『幸世界』の主人公は、まさに同じ幸せの瞬間を繰り返すことを自ら選び取っているように見えます。歌詞中の「またまた繰り返している」というフレーズは、憧れの先輩との“一日”という幸福な記憶を幾度もループさせている情景です。彼女は「それって幸せかい?」(それは幸福なの?)と自問しつつも、「まだ覚めるには早いかな」――目覚め(現実への回帰)を先送りにしています。この態度には、永劫回帰を受け容れる者の姿が重なります。現実へ逃避せず、たとえ幻想でも繰り返しの運命を受け入れる姿勢は、ニーチェが『ニーチェ対ワーグナー』で求めた運命愛(アモール・ファティ)を想起させます。
ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』では、一度きりの人生は“軽く”何ものにも縛られないが故に無意味であり、永遠に繰り返されると想定されるとき人生に“重み”=意味が生まれると説かれます。クンデラは「一度だけ起こることは、一度も起こらなかったも同然」だと述べ、重荷(繰り返し)が人生にもたらす充実を問いました。
『幸世界』の主人公はまさに軽さより重さを選んだ人です。彼女の現実は「どうにもこの世界は駄目だ」と捨てられ、代わりに何度も反復される私的な幸福(憧れの先輩との日々)に浸ることで、彼女だけの“重い”世界=「幸世界」を創り上げています。繰り返される夢の中では時間が円環し、一瞬一瞬が彼女にとっては重みを帯びているのです。その反面、現実世界での彼女の人生は軽く無意味なものとなってしまった。クンデラが指摘したように、重荷を下ろしてしまった人間は「空気より軽くなり、空中に舞い上がり、…無意味になる」。主人公が「微睡に溶け」「空に落ちていく」ように描かれるのは、まさに重力(現実)の束縛を失い半ば現実感を喪失した魂の姿でしょう。歌詞に漂う浮遊感と虚ろな甘さは、“軽さ”の恍惚とその裏にある無常を思わせます。彼女は問いかけます——この繰り返しの中に本当の幸せはあるのか、と。そしてなお、彼女は繰り返しの円環へと身を沈めていくのです。
さらに深く読むなら、この物語はユング心理学の「シャドウ(影)」の概念とも重なります。ユングによれば、シャドウとは無意識下に抑圧されたもう一人の自分であり、それと向き合い受容して統合することが人格の成熟(個性化)のプロセスだとされます。『幸世界』の歌詞に登場する「私とわたしを繋いでる それを理性と呼ぶらしい」という一節には、幻想に生きる自分(わたし)とそれを傍観する自分(私)という二面性が示唆されています。理性がかろうじて両者を繋いでいるという描写は、意識と無意識の自己が分離している状態、すなわち彼女の中の光と影の自己の分裂を表現しているように読めます。しかし彼女はその「影」である幻想世界へ積極的に浸り込んでいる。歌詞の中で彼女は「足先まで浸かった 透とした泥濘(ぬかるみ)に逢瀬」と、透明な泥沼に足の先まで浸かって逢瀬を楽しんでいると歌われます。泥沼とはまさに現実から見れば負の象徴=影の世界でしょう。彼女は「うたかたなんかじゃない(儚い泡などではない)」と言い切り、自分の影の中にある欲望や痛みを決して一過性の泡として否定しない。むしろその泥濘に身を沈め、「ずっと、わたしの幸世界 ずっとずっとずっと!」と繰り返し叫ぶさまは、影の自分を生きる決意すら感じられます。ユングの言う影との統合とは、本当の自分が望んでいたもの(抑圧してきた欲望)に気づきそれを抱きしめることですが、彼女はまさに孤独と虚無を抱きしめて幻想に沈むことで、自分のシャドウをある意味受け入れているのです。その行為は危うくもありますが、彼女なりの自己肯定であり、無意識下の影と向き合う内的な旅と捉えることもできるでしょう。
## 主人公像の再定義
以上を踏まえると、この主人公像は単なる幻想の囚人ではありません。むしろ自らの選択で幻想の中に留まる意識的な旅人、あるいは自分の夢を観測し続ける者へと再定義できます。彼女は被害者ではなく共犯者として、自ら幻想世界を「幸世界」と名付けて維持しているのです。歌詞中に散りばめられた言葉からも、主人公の主体性が読み取れます。「こちら側に背を向ける私の態度は怠惰が招いた負のユースタシー 初めからわかってる」とあるように、彼女は現実という此岸に背を向ける自分の怠惰(逃避行動)がもたらす甘美な陶酔(ユースタシー)を “負”のものと呼びつつ、そのことを初めから承知しています。ここには「現実に気づきながら装う主体」、すなわち自分の逃避行為を自覚しながらあえて演じている主体の姿が浮かび上がります。彼女は自分が幻想に浸っていることを知っているからこそ、「問い掛ける私」としてもう一人の自分に問いかけ、メタ的に自己を観察している。まるで夢見ている自分自身を傍から見つめるような二重意識の存在です。
このように自覚的に幻想に居座る姿は、弱さというより一種の意志の強さすら感じさせます。現実世界は彼女に「逃すまいと」迫り、「荒れた部屋」を孤独と寂寞で埋め尽くしています。おそらく彼女の現実は荒涼としていて、逃避を「怠惰」と呼ばねばならない後ろめたさもある。しかし彼女はその痛みから目を逸らさず、「寂寞と孤独を今日も紛らわすように眠る」と詩的に表現されるように、眠り=幻想へ赴くことによって自分を保っているのです。逃避そのものを自己批判しつつ、同時にそれを自己肯定してもいる。そのアンビバレントな態度が、「幸世界」という言葉の持つ痛みを伴ったアイロニーに滲んでいます。つまり彼女は「幸せ(な)世界」に浸っているが、それは現実ではなく自ら作り上げた幻想に過ぎないという自己認識がある。しかしそれでも彼女は問うのです──「それって幸せかい?」と。これは単なる疑問ではなく、自らへのある種のエールではないでしょうか。「たとえ偽物でも、これが私の選んだ幸せだ」と。自分の逃避を知り尽くした上でなお肯定する姿には、逃避者の矜持のようなものさえ感じられます。まさに現実を直視しつつ幻想を纏うという二重構造の中で、彼女は現実の重みに押し潰されない自分なりの生を選び取っているのです。
## おわりに 時代性との共鳴と、私たちへの問い
「幸世界」は、美しい言葉選びとメタファーによって紡がれた詩的な歌詞と、切なくも壮大なサウンドが融合した楽曲です。無色透名祭というイベントの性質上、投稿当初は白背景に黒文字の歌詞だけが表示されるシンプルな動画でした。そのミニマルな演出ゆえに、歌詞一つひとつの言葉が持つ意味や響きがダイレクトに伝わってくる仕掛けになっていました。描かれたモチーフ――時間のループ、世界の分岐、虚構への逃避と受容――は、2025年現在の物語文化とも響き合っています。もとより「ループもの」の物語は古くはアニメ映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』から近年の『サマータイムレンダ』『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』に至るまで、出るたびに人々を惹きつけて離さない人気ジャンルです。そうした時代の空気の中で、生と時間のループ、現実と幻想の二項対立を巧みに織り込んだ『幸世界』は、あえてカタルシスを目指さないストーリーテリングをする手法から見ても、現代のループ・分岐構造ブームに哲学的な深みを与える楽曲として際立っています。
結局のところ、この物語が投げかける問いは「現実から逃避した幸福は真の幸福と言えるのか?」という私たち自身への問いでもあります。主人公は現実の寂しさに耐えられず過去の思い出という殻の中に逃げ込みます。その殻の中では大好きな人と過ごす夢のような時間が永遠にループし、一見満たされた「幸せな世界」があります。しかし彼女自身、それが偽物であり続けられないことを理性では理解している。だからこそタイトルにもある「それって幸せかい?」という問いが常につきまといます。「混ざりあえたらいいのに」という独白に滲むのは、「理想(幻想)と現実が両立するような世界があればいいのに」という切実な願いです。しかしそれは叶わない夢物語だと分かっているからこその「…なんてさ」という投げやりな結びになっているのです。
この結末は決してハッピーエンドではありませんが、だからこそ「幸世界」というタイトルの皮肉が際立つのです。幸せな世界のはずが、結局幸せでは終われない。その現実の重みが聴き手の胸にも静かに押し寄せてきます。主人公の選択は極端にも見えますが、その根底には誰しもが抱える影が横たわっています。彼女の哲学的葛藤と静かな自己肯定は、聴く者に不思議な余韻を残し、現実と虚構、逃避と受容についての思索を促すでしょう。「透とした泥濘」に足元まで浸かりながら恋人との逢瀬を楽しむ『幸世界』は、美しくも切ないループの物語を通じて、生の意味と幸福のありかをそっと問い掛けているのです。