top of page

Project no.23
ボカロさんぽ 第2回 『匙ノ咒』の歌詞世界

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025冬ボカコレの難しくもおもしろい曲 r-906『匙ノ咒』について

 ①二次創作小説『海辺の邸』パート

 ②歌詞の考察パート

を通して愛情や養育のシンボルである”匙”などに代表される象徴性や暗喩の分析、

「おまじない」や「毒」について、

そして「紅」と「碧」のふたりの関係性を妄想たっぷりに考察していきます

目次:

■二次創作パート 『海辺の邸』

■考察パート
## 歌詞と映像に宿る象徴性

## 甘美なるおまじないと隠された毒

## 紅と碧――揺らめく関係性と結末

 『匙ノ咒』の歌詞世界

​​

■二次創作パート 『海辺の邸』

v2.60 20250321

## 第一章 海辺の邸宅への来訪


 痛みも寒さも、何もかもが遠のいていく――碧は嵐に翻弄されながら、ただ意識を手放すまいと必死だった。耳元で轟く風と波の咆哮、砂混じりの海水が口から肺へと流れ込み、むせ返る。夜の闇に稲光が閃き、一瞬だけ白く激しい光が視界を焼いた。その刹那、暴風の彼方に人影が見えた気がした。誰かがこちらに手を伸ばしている……。
 瓦礫のように波にさらわれ、碧の小さな体は海岸に打ち上げられた。粗い砂と貝殻が肌を擦り、全身が悲鳴を上げている。それでも辛うじて薄れていく意識の中、彼女は朧げな赤い色を捉えていた。そう、それは赤――燃えるように紅い髪が、嵐の夜の闇に揺れている。碧は微かに手を伸ばそうとした。助けを求めたかったのか、或いはその赤い幻に縋りつきたかったのか、自分でも分からない。ただ、冷たい雨と波が肌を打つ中、その赤は確かに彼女に近づき、そして温かな何かが碧の手を包んだ。
 「……もう大丈夫、私がいるわ」
 耳鳴りに紛れて、優しい声が届いた気がする。それは嵐の怒号にも負けず、碧の心臓に直接響くような、不思議な力強さを秘めた声音だった。安堵が一気に押し寄せ、碧の瞼は重く沈む。最後に紅い髪が揺れるのを見届け、彼女の意識は深い闇へと沈んでいった。
 次に目覚めたとき、碧は見知らぬ天井を見つめていた。燭台にともる淡い橙色の光が揺らめき、古い木造の天井板に影を作っている。頭はひどく朦朧として、身体の感覚が鈍い。全身が鉛のように重く、指先一つ動かすのも億劫だった。
 「あ……」
 かすれた声が喉から漏れた。その微かな音に応えるように、厚い扉の開く音がして、軽やかな足音が近づいてくる。無理に首を巡らせると、枕元に誰かが歩み寄ってくるのが見えた。赤い……髪? そう、あの夜に見た幻と同じ、紅い髪の少女がこちらを覗き込んでいる。
 「よかった……気がついたのね」
 少女はふわりと微笑んだ。年の頃は碧と同じくらいだろうか。蒼白い夜明けの光がカーテン越しに差し込む中、その髪は炎のように鮮やかで、淡い光を受けた横顔は人形めいてさえ見える。両頬にはかすかに赤みが差し、長い睫毛が影を落としていた。黒を基調としたメイド服に身を包んでいるようで、襟元には白いフリルが覗いている。碧は自分が夢を見ているのでは、とさえ思った。しかし鼻先に届く潮の香りと、身体に掛けられた厚手の毛布の重みが、これは現実なのだと告げている。
 「ここは……?」
 碧は唇を震わせ、なんとか短い問いを発した。声を出すだけで喉が焼けつくように痛む。少女は微笑みを崩さずに答える。
 「大丈夫。安全な場所よ。――海辺の古いお邸。あなたが昨夜、波打ち際で倒れていたのを私が見つけたの」
 碧は昨夜の記憶を手繰った。激しい嵐、押し寄せる波、自分が海に投げ出されたこと……断片的なイメージが蘇る。そうだ、自分は確かに嵐の中で……。なぜあのような場所にいたのか、その理由まではすぐには思い出せなかった。もしかすると何かから逃げようとして船に乗ったのかもしれない――頭を振ると、じんと鈍い痛みが走る。深く考えるのは後回しにしよう、と碧は思った。
「あなたが助けてくれたの……?」
 絞り出すように問うと、紅い髪の少女は軽く首を振った。
 「ううん、正確には私一人じゃないわ。あのときは必死で大声を上げて、助けを呼んだの。おかげでお邸の旦那さまも駆けつけてくださって……それで、なんとかあなたを浜から運び上げたのよ」
 「……そう、だったの」
 碧はまぶたを数度ゆっくり瞬かせた。助けが来たのだ。自分は生き延びて、この邸にいる。実感が湧かず、呆然と天井を仰ぐ。命が助かったことへの安堵と戸惑いがないまぜになって胸を満たしていた。涙が滲み、瞳が熱くなる。かっと息を飲み込むと、喉に塩辛い味が戻ってきた。
 「いま、お水を持ってくるわ。少し待っていて」
 少女はそう言って、小走りに部屋を出て行った。残された碧は、微かな頭痛に耐えながら周囲に目を凝らす。広めの寝室で、調度品はどれも古風だが手入れが行き届いている。壁には薔薇をあしらった壁紙が貼られ、天井からは葡萄の蔦を模したシャンデリアが下がっていた。寝台の脇には象嵌細工の施されたサイドテーブルがあり、その上には銀の燭台と陶器の小さな花瓶が置かれ、白いカスミソウが一輪活けられている。開け放たれた窓からは潮風が入り込み、純白のカーテンがかすかに揺れていた。
 窓の外にちらりと視線をやると、朝焼けに染まる空の下、群青色の海が見えた。昨日はあの海の中にいたのだと思うと、身体の芯が震える。しかし今目に映るのは、なんて美しい景色なのだろう。茜色に染まる雲間から朝日が差し込み、荒々しかった波も今は静かに砂浜を撫でている。まるで昨夜の狂騒が嘘であったかのように、穏やかな光景であった。
 やがて先ほどの少女――紅が戻ってきた。銀のトレイに載せた水差しとグラスを手にしている。彼女は碧の傍らにそっと腰掛け、優しく頭を支えてグラスを傾けてくれた。ひんやり冷たい水が喉を潤し、生き返った心地がする。碧はこくりと数口飲むと、長く息をついた。
 「ありがとう……ございます」
 掠れた声で礼を言うと、紅は首を横に振った。
 「いいのよ。私は紅っていうの。あなたは?」
 「あ……碧……です。碧と呼んでください」
 「碧さんね。綺麗なお名前」
 紅は柔らかく笑んだ。その笑みは朝日のように温かく、碧の胸の奥に染み渡る。自分の名を誰かに呼ばれたことで、ようやく現実の感触が戻ってきた。
 「紅さん……本当に私は助かったんですね。夢じゃ、なくて……」
 恐る恐る確かめるように問うと、紅は「ええ」と力強く頷いた。
 「もう大丈夫。ここは安全よ。怖い思いをしたでしょうけれど、もう心配いらないわ。しばらく休んで、体力を戻さないとね」
 その言葉に碧は安堵し、再び瞼を閉じた。身体はまだ鉛のように重いが、温かい毛布と柔らかな寝台が心地よい。緊張が解けると急に眠気がぶり返してきた。
 「……ありがとうございます、紅さん……恩人……」
 「恩人だなんて、そんな大げさな……。でも――ふふっ、なんて可愛らしい人なのかしら」
 紅がくすくすと笑うのが聞こえ、碧はかすかに頬を染めた。胸の奥がくすぐったいような、不思議な気恥ずかしさがこみ上げる。しかし反論する間もなく、意識はゆるゆると眠りの淵へ誘われていった。
 寝入る直前、遠くでカラスの鳴く声が聞こえた。カァ、カァと不規則な調子で、まるで誰かが低く哄笑しているようにも聞こえる。碧は朦朧としながら首を傾げたが、やがて意識は静かに手放され、深い眠りに落ちていった。

## 第二章 邸での静かな生活


 碧が海辺の邸に運び込まれてから数日が過ぎた。幸い大きな外傷はなく、若さも手伝って回復は早かった。まだ咳込むことはあるものの、自力で起き上がり歩けるまでに体力を取り戻した。
 朝、目を覚ますと窓の外には眩い陽光が降り注いでいた。カーテン越しに聞こえる波音は静かで、遠くカモメの鳴く声もする。碧はゆっくりと身を起こし、ベッドの傍らに畳まれて置かれた服に手を伸ばした。紅が用意してくれたという使用人服――この館で働いていたメイドの予備の制服だそうだ。白い襟とエプロンが清潔な黒地のワンピースに映えている。自分がこれを着ることになるとは、と碧は少しおかしな心地がした。ほんの数日前までは見知らぬ旅の途中で、嵐に呑まれるとも思っていなかったのに、今はこうして異国風の古い邸でメイドのような身なりをしているのだから。
 服を身に纏い、エプロンの紐を結び終えたところで、扉がノックされた。
 「碧さん、起きられましたか?」
 紅の声が掛けられ、碧は「はい」と答えた。扉が開き、紅がひょっこりと顔を覗かせる。
 「おはよう、もう立って平気なのね。よかった」
 紅は安心したように微笑んだ。碧もつられて小さく笑みを返す。
 「あの……紅さん。このお洋服、ありがとうございます」
 「ええ、よく似合っているわ。心配しないで、その服の元の持ち主さんはもうここには居ないのだけれど……置き忘れていった物なの。サイズも碧さんに合っているみたいでよかった」
 碧は「元の持ち主」が誰なのか少し気になった。けれど紅は特に触れたがらない様子だったので、それ以上は問い詰めなかった。この館には以前もメイドがいたのだろうか、と心に浮かぶ。だが今は自分と紅以外に使用人は見かけない。昨日、体調がだいぶ良くなった碧は廊下を散歩がてら歩いてみたが、出会ったのは朝食を運んでくれた紅だけだった。
 「さあ、下へ行きましょう。朝食の席で旦那様に挨拶しなくてはね」
 紅に促され、碧は寝室を後にした。長い絨毯敷きの廊下を二人で並んで歩く。壁には古い油絵がいくつも掛けられ、重厚な額縁に収まった風景画や肖像画が続いていた。調度品の一つひとつまで歴史を感じさせ、碧は圧倒されながらも興味深く見渡した。
 「旦那様……この館のご主人にまだお会いしていませんが、一体どのような方なのですか?」
 恐る恐る碧が尋ねると、紅は「そうね」と考えるように少し首を傾げた。
「とても物静かな方よ。いつも穏やかで優しいわ。ただ少し体が弱くていらっしゃるから、あまり外出なさらないの」
「そうなんですね……私、きちんとお礼を言えるかしら」
「大丈夫。旦那様は気さくなお人だから、そんなに畏まらなくていいのよ」
 紅が言うとおり、館の主人は碧が目覚めてから数日の間、一度も姿を見せなかった。だから碧にとってはどんな人物か想像するしかなかったが、紅の口ぶりからすると厳格で恐ろしい主ではなさそうだと感じていた。胸の内で何度も礼の言葉を練習しながら階段を下りる。
 一階に降りると、高い天井を持つ広間に出た。正面には大きな両開きの玄関扉があり、その脇には長靴や傘立てが整然と置かれている。昨夜まで嵐だったとは思えぬほど、外の空は晴れ渡っていた。碧は玄関越しにチラリと中庭を見た。塀に囲まれた庭には薔薇の低木が花をつけている。視界のさらに奥には、塀越しに海原が広がっていた。
 やがて紅に連れられ、碧は食堂に入った。そこは長いテーブルと十脚ほどの椅子が並ぶ立派な食堂で、テーブルクロスの上には銀食器が並び、窓際には古めかしい蓄音機が置かれている。窓からは朝の光が差し込んで、部屋を明るく照らしていた。
 「旦那様、ご一緒いたしました」
 紅が食堂の一角に向かって声をかける。碧もそれにならってそちらに目を向けた。すると、テーブルの上座に一人の男性が座っているのが目に入った。黒い燕尾服に身を包んだ痩身の紳士だった。年齢は五十代くらいだろうか、頬は痩け落ち、髪は鉄灰色でオールバックに撫でつけられている。整った顔立ちだが、どこか影のある雰囲気があった。彼は穏やかな微笑を浮かべ、椅子から静かに立ち上がった。
 「おはよう、碧君。具合はもうよろしいかな?」
 低く柔らかな声だった。碧はとっさに一礼し、緊張でぎこちなくなりながらも言葉を返す。
「は、はい……! このたびは、お命を救っていただき本当に……ありがとうございます……!」
 彼女は言い淀みながらも、用意していた感謝を述べた。胸がどきどきと高鳴っている。紳士は静かに頷いた。
「何、困っている人を助けるのは当然のことだよ。礼には及ばん。ここでの生活にすぐ慣れてくれると良いがね」
「はい……! ご迷惑をおかけしますが、どうかよろしくお願いいたします……」
 碧は顔を上げ、改めて主人の顔をそっと窺った。彼の瞳は深い闇のような黒で、一瞬たりとも感情を映さない硝子玉のようだった。しかし視線が合った刹那、にたりと口元が歪んだ。笑顔のままなのに、底知れぬ暗い穴がそこに開いたように見え、碧は息を呑んだ。
(まるで……カラス?)
 奇妙な錯覚だった。紳士の背後の窓辺に、いつのまにか一羽の黒い鳥がとまっていたのだ。カラスだ。艶のある黒い羽根を震わせ、ぎょろりとした丸い眼で部屋の中を伺っている。その姿が主人の影と重なり、碧には一瞬、目の前の男の笑みがカラスのように見えたのだった。
「どうかなさいましたか?」
 紅が不思議そうに隣から顔を覗き込んでくる。碧ははっと我に返り、「いえ……何でも」とかぶりを振った。もう一度窓際を見ると、黒い鳥の姿は消えていた。あれは一体……と首を傾げつつ、碧は席につく。
「ところで碧君、今後のことだが……」
主人がナプキンを広げながら口を開いた。「はい」と返事をして碧は耳を傾ける。
「しばらくこの館で養生するといい。その後の身の振り方は快方に向かってから考えるとよいだろう。無論、当分はここに住んでいって構わない。部屋も好きに使ってくれていいからね」
「恐縮です……! 本当にありがとうございます……」
碧は恐縮して頭を下げた。血の繋がりもない見ず知らずの自分を、こうまで厚遇してもらえるとは思っていなかった。世間知らずと言われても仕方ないが、碧は人の親切にただただ胸を打たれていた。
「それと……君が元気になったら、ぜひこの館で働いてみてはどうかな?」
「え……?」
碧が驚いて顔を上げると、主人は穏やかな微笑を浮かべたまま続ける。
「先日、前に仕えていた娘が館を去ってね、人手が足りないのだよ。紅だけでは家事も大変だろうから、君さえよければお手伝いをお願いしたい。もちろん無理強いはしないが……じつは少し前から若い人手を探していたところでね。こんな辺境では滅多に来てもらえないが……君のように運ばれてきた子がいるなんて、まるで巡り合わせだと思わないか?ねえ、紅?」
碧は主人の整った横顔を盗み見る。初めて会ったときから、彼はいつも穏やかな物腰だった。しかし「若い人手を探していた」と告げるその瞬間、底冷えするような熱っぽい視線が一瞬だけ見えた気がする。……気のせいだろうか。
隣の紅を見ると、彼女は目を輝かせて微笑んでいる。どうやら大賛成の様子だ。碧はしばし言葉に詰まったが、すぐに小さく頷いた。
「……はい。私でお役に立てるなら……ぜひ、働かせてください」
紅が嬉しそうに碧の手を握った。「よかったわ、一緒に頑張りましょうね」と囁く。その温もりに、碧の胸にも安堵が広がった。
「そうか、助かるよ」
主人は満足げに頷き、再び席に着いた。「それでは、朝食にしよう」と紅に目で合図を送る。紅は厨房に下がっていった。
 朝食は軽く温められたライ麦パンとチーズ、それに白身魚の燻製とジャガイモのスープだった。碧はまだ本調子ではない胃に優しい品々をゆっくりと口に運びながら、新たな生活が始まるのだと静かな感慨を覚えていた。ふと隣を見ると、紅が微笑みながら「美味しい?」と聞いてくる。碧が「ええ」と頷くと、紅も満足げに笑んだ。食堂にこぼれる朝の光の中で、紅の髪が明るく輝いて見えた。
 それからの日々は穏やかに過ぎていった。碧は邸の一員として紅の指導を受けながら仕事を覚えていった。手始めに館内の掃除、洗濯、雑用を二人でこなす。紅は要領よく動き、碧にも根気よく仕事を教えてくれた。
 午後のティータイムには主人の書斎へ紅とともに紅茶とシナモンロールやクッキーなどの簡単な焼き菓子を運ぶのが日課だった。ノックをして入ると、主人はいつも決まって大きな肘掛け椅子に腰掛け、古ぼけた洋書を読んでいる。彼は優雅にカップを傾け、「ありがとう」と二人に微笑を向ける。書斎は薄暗く、分厚い緞帳が窓を覆っているせいで昼間でも夜のような雰囲気だ。ランプの明かりに照らされた主人の横顔は蝋人形のように青白く、碧はその度に軽い緊張を覚えた。
 だが主人は決して怒鳴ったり叱責したりすることもなく、常に柔和な物腰であった。館の暮らしは規則正しく、決まった時間に起床し食事を摂り、決まった時間に労働し、夜更かしも許されなかった。ある意味でとても健全で安定した生活であり、碧は次第に心身ともに健康を取り戻していった。
 紅と共に働き、共に食卓を囲む日々は碧にとって新鮮だった。奇妙な縁で流れ着いた場所だったが、自分を必要としてくれる人がいる喜びを噛みしめる。紅はよく笑いよく喋り、碧を楽しませてくれた。碧もまた、紅に心を開き始め、自分から話しかけることも増えていった。
「碧さんは、嵐に遭う前はどちらにいたの?」
 ある日の夕暮れ、窓拭きを終えた二人は廊下の窓辺でひと息ついていた。紅がふとそんな問いを口にする。碧は掃除布を畳みながら小さく首を振った。
「……私、自分の過去のことをあまり話したくないんです。ごめんなさい」
 それは嘘ではなかった。碧は思い出したくない記憶があった。幼いころに両親を亡くし、以来親戚の家を転々として育ったこと。年頃になってからも自分の居場所を見つけられず、行くあてもなく彷徨っていたこと。そんな折に乗った沿岸航路の船が嵐で難破し、命からがら漂着したのがこの地なのだ――そう紅に告げようか迷ったが、結局口に出せなかった。それらはすでに過ぎ去ったことであり、今はこうして新たな居場所を得たのだから、敢えて語る必要もないと感じたのである。
 紅は「ごめんなさい、嫌ならいいの」とすぐに話題を打ち切り、微笑んだ。
「無理に聞いてごめんなさいね。でも……安心して。この館はあなたの家族のようなものだから」
「家族……」
 碧はその言葉を噛みしめた。家族――自分にはずっと縁のなかったもの。しかし、紅の言葉には真実の響きがあった。たとえ血の繋がりはなくとも、こうして共に過ごす時間が温かさを育んでいくのだと。
「はい……ありがとうございます」
 碧が微笑むと、紅は満足げに頷いた。やがて二人はまた緩やかに歩き出す。夕闇が廊下に影を伸ばし、館の静けさが際立ってきた。
「そろそろランプに火を灯しましょうか。暗くなってきたわね」
 紅が呟き、壁に取り付けられたガス灯にマッチで火をつけて回った。廊下にオレンジ色の揺れる光が順々に灯り、油絵の肖像画が浮かび上がる。
「ねえ、紅さん。この絵のご婦人は?」
 碧はふと、先ほどから気になっていた大きな肖像画を指さした。それは黒いドレスを纏った若い女性の肖像だった。気品ある顔立ちの女性が、どこか物寂しげな微笑を浮かべている。額縁の下には小さく銘が入っており、「ヘレナ」と読めた。
「その人は、昔この館に住んでいた方だって聞いたわ。旦那様のお母様か、お祖母様か……詳しくは知らないの。ただ、綺麗な方よね」
「ええ……少し悲しそうな目をしているけれど」
 碧がそう感想を述べると、紅は静かに笑った。「昔の人の肖像画ってみんなこんな表情をしているものよ」と軽やかに言い、次のランプへと進んだ。碧はもう一度女性の絵に目を留め、不思議な感情に囚われた。言いようのない哀愁がその姿から漂っている気がする。目が合うと吸い込まれそうな……。
 突然、どこからか甲高い笑い声のような音が響いた。碧ははっとして辺りを見回した。遠く廊下の先、暗がりに向かって誰かが笑っているように思えた。しかし見間違いか、影が揺れただけで何もない。奇妙な余韻だけが耳に残った。
「どうしたの?」
 紅が心配そうに声をかけてくる。碧は「い、いえ……なんでもありません」と慌てて笑みを作った。今のは何だったのだろう。まさかまたカラスか? そう考えたとき、背筋にひやりと冷たいものが走った。だが廊下にはもう静寂が戻っていた。
 その夜、碧は久しぶりによく眠れた。窓の外で潮騒がささやき、微かに霧笛の音が聞こえた気がする。遠く沖合を航行する船が、霧の深い夜に鳴らす低音の笛だ。何度か繰り返されるその音は子守歌のようでもあり、碧は毛布にくるまってまどろんでいた。
 夢うつつの中で、誰かがすすり泣く声がした。しゃくりあげるような悲痛な泣き声。碧は眠りの底から浮上できず、ただその声を聞いていた。泣いているのは誰? 紅? それとも知らない誰か? 意味のわからないイメージが脳裏をかすめる。しかし、重たい眠気に抗えず、碧は再び深い眠りへと沈んでいった。

## 第三章 おまじないの秘密


 その後の数日、館での生活は平穏だった。碧は次第に仕事にも慣れ、紅との絆も深まっていった。ある夕暮れ、紅が「浜辺を散歩しましょう」と碧を誘ったことがあった。主人の夕食の支度まで少し時間があったため、二人は館の裏門から砂浜へ出た。
 茜色に染まる空の下、波打ち際を寄せては返す穏やかな波が煌めいていた。海面には夕日が一本の光の道となって伸びている。裸足になった紅が砂の上を歩き出し、碧も靴を手に提げてその隣を並んだ。
 「海って、不思議ね……こうしていると嫌なこと全部忘れられそう」
 紅が目を細めて夕日を見つめ、呟いた。
 碧は潮風に髪をなびかせながら、横顔を盗み見た。紅の表情は穏やかで、それまで見せる明朗さとは違う静かな美しさがあった。
 「紅さんにも……嫌なこと、あるんですか?」
 思わず聞いてしまってから、碧は思わず息を詰めた。失礼だったかもしれない。しかし紅は怒るでもなく、くすりと笑った。
 「もちろんよ。私だって悩みくらいあるわ。だけど……今は大丈夫。碧さんが来てくれたから」
 「紅さん……」
 碧の胸がじんと熱くなった。自分の存在が誰かの支えになっているという喜び。それは彼女が生まれて初めて得た感情だった。砂浜に寄せる波がさらさらと二人の足首を撫でる。
 紅がにっと笑い、「よーし」と声を上げた。
 「碧さん、せっかくだからあれしましょう! 貝殻拾い!」
 「え……?」
 戸惑う碧の手を取り、紅はずんずんと浜辺を駆け出した。少女のようなはしゃぎぶりに碧もつられて笑い、二人で打ち上げられた色とりどりの貝殻を探して歩いた。
 乳白色の小さな貝、薄紅色の桜貝、渦巻き模様の巻貝――紅は見つけるたびに歓声を上げ、裾をたくし上げて貝殻を集めた。碧も夢中になって砂を掘り、宝探しのように波間から現れる貝を拾い集めた。
 気づけば紅のエプロンのポケットは貝殻でいっぱいになっていた。西の空には宵の明星が輝き始め、風が少し冷たくなる。
 「沢山採れたわね。ほら、これなんて綺麗……」
 紅が桜色の小さな二枚貝を碧に見せた。確かに可憐で、碧は思わず笑みをこぼした。
 「本当……綺麗。まるで紅さんみたい」
 「えっ……?」
 唐突な碧の一言に、紅は目を瞬かせた。碧も我に返って真っ赤になる。
 「い、今のは……貝殻がです! 紅さんが綺麗とか、そういうんじゃなくて……!」
 「ふふっ」
 取り繕う碧を見て、紅はおかしそうに笑った。
 「ありがと。嬉しいわ、その言葉」
 「~~っ」
 碧の顔がさらに熱くなった。夕焼けに染まる頬を隠すように俯くと、紅はくすくす笑い声を漏らす。そして碧の手を取った。
 「そろそろ戻りましょう。夕食の支度があるもの」
 繋がれた手は少し砂でざらついていたが、碧にとってそれはどんな宝石よりも尊い感触だった。二人は名残惜しげに砂浜を後にし、館へと戻っていった。
 それは、些細な失敗から始まった。
 碧が館で働き始めて一週間ほどが過ぎた頃のこと。この地でフィーカとよばれる午後のティータイムに向け、彼女は紅と共に食堂での給仕の準備をしていた。窓からは爽やかな潮風が吹き込み、カーテンがふわりと揺れている。食後のひとときを楽しむため、主人と紅と碧の三人分のティーカップとソーサー、それとカルダモン風味の甘いパンがテーブルに並べられていた。
 「紅さん、ティーポットはどちらに……?」
 碧が棚を探しながら声をかけたときだった。ふとした不注意から手元が狂い、碧はうっかりテーブルクロスの端を踏んでしまった。次の瞬間、バランスを崩した彼女は、載せてあったティーカップの一つに肘を引っ掛けてしまった。
 カップとソーサーが床に落ち、乾いた音を立てて砕け散った。
 「…っ!」
 碧は凍りついた。白磁のカップは無残に割れ、絨毯の上に茶色の茶葉が散乱している。幸い熱い紅茶は注いでいなかったが、それでも主人に出す大切な器を壊してしまったのだ。血の気が引く思いで、碧は我が身の失態を悟った。
 「ご、ごめんなさい!」
 碧は慌てて膝をつき、破片をかき集めようとした。指先に尖った陶器の破片が触れて、じくりと痛む。紅がすぐに駆け寄り、心配そうに碧の肩に手を置いた。
「大丈夫? 手を切ってない?」
「だ、大丈夫です……私、その……」
 碧は顔面蒼白で、震える手をぎゅっと握りしめた。大事な食器を壊した罪悪感と、主人への申し訳なさで頭がいっぱいになる。紅は碧の手をそっととり、破片を拾おうとする彼女を制した。
「破片はこちらで片付けるから、碧さんは少し落ち着いて。怪我をしたら大変だわ」
 そう言って紅は急ぎほうきと塵取りを取り出すと、手際よく破片と散らばった茶葉を掃き集めはじめた。碧は呆然とそれを眺めながら立ち尽くす。
「何事だね?」
 突然、低い声が背後からかけられた。食堂の扉口に館の主人が立っていた。いつの間にか書斎から出てきたのか、本を片手にこちらを見ている。碧ははっと息を呑み、蒼白な顔のまま深く頭を下げた。
「も、申し訳ありません! 私、カップを……」
 うまく舌が回らず、どもりながらなんとか謝罪の言葉を絞り出す。主人は静かに室内へと歩み入り、割れたカップの残骸に目を落とした。しばし沈黙が落ちる。碧は心臓が張り裂けそうな思いでその場に硬直した。
 しかし次に主人の口から出たのは、意外にも穏やかな言葉だった。
「なるほど……うっかり手元が滑ったのだな。誰にでも失敗はあるものだよ」
 碧は意外さに顔を上げた。叱責されると覚悟していたのに、主人は少しも声を荒らげる様子がない。それどころか、微笑すら浮かべている。
「お気になさらず、碧君。こんなこともあろうかと同じ茶器は予備がある。掃除をすれば元通りだ」
「あ、ありがとうございます……!」
 碧は恐縮しながらも安堵した。なんと寛大な主人なのだろう。だが次の瞬間、彼はなにか思い出したように軽く指を立てた。
「そうだ、念のために“おまじない”をしておこうか」
 その言葉に、碧はきょとんと首を傾げた。おまじない? なんのことだろう。紅は「あ……」と声を漏らし、小さく頷いた。
「その……まだ彼女は体調が万全というわけではありませんし、わたしが後始末をすれば済むかと……いえ、何でもありません。おまじない、ですね。」
「おまえが気にすることではない。ただの迷信のようなものだよ。ほら、薬箱はいつもの棚にあるはずだ。行って持ってきてくれないか」
 主人に言われ、紅はすぐさま部屋を出て行った。碧は訳がわからず、不安そうに主人を見つめる。
「おまじない、とは……?」
 震える声で尋ねると、主人は微笑を深めた。
「ふふ、ただの言い伝えのようなものだよ。古い因習でね。この館では昔から、器物を壊すような粗相があったときは、決まって一匙の薬を飲むことになっている。そうすれば悪いことは起こらず、不運も帳消しになる、とな」
「そ、そうなのですか……」
 碧は戸惑った。器物を壊したら薬を飲む? 聞いたこともない風習だ。だが主人は当たり前のように頷いている。これはこの土地の独特の迷信なのだろうか。そう言えば、昔祖母から「コップを割ったら不吉だから塩をまけ」と聞かされたことがある。そういう類の厄除けだろうかと考え、碧は少し落ち着きを取り戻した。
 やがて紅が、小さな木箱を抱えて戻ってきた。定位置からもってきたらしい。箱は年代物のようで、蓋には褪せた金色の織物のような模様が描かれている。紅がそれをテーブルに置いて開けると、中には幾つかの小瓶と匙などが収められていた。彼女はその中から細長いガラス瓶を取り出した。瓶には黒いラベルが貼られ、達筆な文字で「一匙のおまじない」と記されている。
「これです、旦那様」
 紅が瓶と銀の小匙を取り出すと、主人は満足げに頷いた。
「では、碧君。立ったままでは何だから、そこの椅子に腰掛けなさい」
 促されるまま、碧はおずおずと椅子に座った。まだ胸の鼓動は速いが、好意的に対処してもらえて少し緊張が解けてきた。それでも「おまじない」とやらに対する不安は残る。
 紅が銀の小匙を瓶口に差し込み、中の液体をほんのわずかにすくい取った。琥珀色のとろりとした液体が、スプーンの中で揺れている。はちみつのような濃厚さだが、微かに薬草じみた匂いが鼻についた。
「さあ、口を開けて」
 紅がスプーンを差し出してくる。碧は躊躇したが、主人が穏やかな目で頷いて見せるので、観念して唇を開いた。唇に冷たい銀の感触が触れ、とろりとした液体が舌の上に流し込まれる。想像以上に甘い。はちみつよりもなお甘く、花の蜜を凝縮したような強烈な甘さだった。喉を通り過ぎるとき、かすかにアルコールのような苦みが後味として残った。
「……!」
 碧は思わず咳き込みそうになったが、なんとか飲み下した。口の中に甘さがじんと広がり、喉の奥が熱くなる。不思議と体の芯がじわじわ温まるのを感じた。
「これでよし。さあ、もう心配はいらないよ」
 主人が満足げに笑って言った。「掃除は紅にやらせるから、君は休憩するといい」と告げると、彼はそのまま書斎へ戻っていった。紅が深々と頭を下げて見送る。碧も慌てて頭を下げた。
 主人が去ると、紅がほっと息を吐いた。
「びっくりしたわね……でも、ケガがなくてよかった。カップの予備があるなんて私も知らなかったわ」
 紅は笑ってみせたが、碧は未だに緊張で強張ったままだった。 何より、口に残る異様な甘さが気になって仕方がない。吐き出したいような、そのくせ妙に病みつきになるような……奇妙な甘味だった。
「これが……おまじない……」
 碧は自分の舌で上顎を押し、ねっとりと残る甘い痕跡を確かめた。動揺が収まらない心臓とは裏腹に、体が不自然にぽかぽかして力が抜けていく。
「平気? ちょっと顔色が悪いわ」
 紅が覗き込んでくる。碧は慌てて笑みを作った。
「だ、大丈夫です。ただ少し緊張して……あの、紅さん。今の『おまじない』って……前からこの館に?」
「ええ、旦那様がおっしゃったでしょう。昔からの習わしなんですって。わたしも詳しいことは知らないのだけど……」
 紅は木箱の中身を片付けながら答えた。だがその横顔には、どこかぎこちない影が差している。
「正直言うと、わたしもあんまり好きじゃないのよ。この薬、やたら甘ったるいクセに、飲むと頭がぼーっとして――あまり考えたくなくなるの。だからね、わたしも自分が粗相をしたときは、何度か『飲むふり』だけしたり、量を減らしたりしたことがあるわ。旦那様に見られていなければ、の話だけど」
「飲む……ふり、ですか?」
 碧は思わず聞き返した。紅は困ったように苦笑する。
「わたしはアルコールも苦手だし、できるかぎりね。……碧さんは、どう? いま何か変な感じしない?」
「ええと……少しだけ、ぼうっとして、体が熱いような……」
 碧は自分の胸元に手を当てながら答える。紅はやっぱり……と息をついた。
「でしょう? あの薬にはやっぱり何かあるんじゃないかしら。以前わたしのほかにもう一人、若い使用人の子がいたんだけど――その子は、おまじないをわりと素直にたくさん飲んでたわ。お皿を割るたび、ごまかすみたいに。……でも、その子はまもなく辞めちゃったの。お医者さんからは、生まれながら体が弱かったし、療養のために実家に戻ったって話を聞いたけどね。」
「……それでも、もしかしたらあの薬って……」
 碧は背筋が寒くなった。紅が口元を噛みながら、小さく首を振る。
「わからない。昔からの“言い伝え”とか“因習”なんですって。……でも、一体なんなのかしら。碧さんもあまり無理しないで、次からはわたしがうまく旦那様を説得してみる……大丈夫、なんとかするから」
「紅さん……ありがとうございます」
 碧は紅の気遣いに感謝しながらも、胸の中で得体の知れない不安が膨れ上がる。口に残る強烈な甘味が、ただハーブのリキュールのたぐいとは思えなくて、鼓動が落ち着かない。紅は複雑そうな顔で木箱を閉め、まるで見られたくないものでも隠すように棚へ戻した。
「とりあえず、今日は部屋で休んでて。気分が悪くなったらすぐ呼んで。――いろいろ、わからないことばかりだけど……平気よ、碧さん。私たち、ちゃんとやっていけるはずだから」
 紅はそう呟き、小さなため息をついた。そしてふいに、碧の肩を軽く抱くようにして「大丈夫よ」と囁いてくれる。その優しい温もりが、かえって碧の不安を際立たせるようで、彼女は苦い甘味の残る唇を噛みながら、ただ静かに頷くしかなかった。碧はそれ以上聞くのははばかられた。すでに辞めた人のことを詮索するのも良くはないだろう。
 紅が掃除道具を片付け終えると、碧も手伝おうと立ち上がった。そのとき、ふっと視界が滲んだ。
「……っ?」
 頭に靄がかかったようにぼんやりとする。体を起こそうとした反動でくらりと眩暈がした。碧は慌ててテーブルに手をつき、体を支えた。
「大丈夫? 座っていて」
 異変に気づいた紅が碧の肩をそっと押して、椅子に座らせた。自分でも理由がわからない。急に力が抜けて立っていられなかった。まるで脚に根がなくなったような奇妙な脱力感だ。さっきまで走った後のように鼓動が早かったのに、それも嘘のように静まっている。代わりに全身に倦怠感が広がり、言葉もうまく出てこなかった。
「あ……すみません……」
 碧は霞む意識で謝った。紅は心配そうに碧の額に手を当てる。
「熱はないみたいだけど……無理もしないで。この後は私がやっておくから、お部屋で横になっては?」
「で、でも……私のせいで仕事を増やしてしまっては……」
「何言ってるの。粗相くらい誰にでもあるわ。碧さんはまだ病み上がりなのだから、遠慮せず休むべきよ」
 優しい口調だったが、その声音には少しだけ強い調子が混じっていた。碧はそれ以上逆らえず、甘えることにした。
「……では、お言葉に甘えて……お先に休ませていただきます……」
 立ち上がろうとするが、まだ足元がおぼつかない。紅が肩を貸してくれ、碧は何とか歩き出した。妙な心地だった。頭はぼうっとしているのに、不安だけが胸の奥で大きく膨らんでいる。今自分に何が起きているのか、考えようにも思考がうまくまとまらなかった。
 碧はそのまま自室へ戻され、紅に「何かあったら呼んでね」と念を押されて一人残された。ベッドに腰掛け、額に手を当てる。少し休めば治るだろうか……。
 瞼を閉じると、あの甘い味が蘇った。舌の上が痺れるような感覚すら覚える。胸の鼓動は今も穏やかで、脈拍が遅くなったような気さえする。まるで体の中に鉛が流れ込んだみたいだ。
「おまじない……」
 碧はぽつりと呟いた。悪いことが起こらないように、厄除けのために飲むおまじない。――だが本当に、これでよかったのだろうか。
 カップを割ったことは叱責もされず、こうして穏便に済んだ。それ自体はありがたい。だがこの倦怠感と眩暈は一体……単なる気疲れか? それとも、あの甘い薬のせい?
 考えれば考えるほど、意識は深い泥沼にはまり込むようだった。碧は耐えられずベッドに横たわった。寝具からは乾いたラベンダーの香りが立ち上り、少しだけ心が落ち着く。自分は緊張のあまり過呼吸にでもなったのだろう、と言い聞かせた。しばらく眠れば、また元気に動けるようになるはずだ……と。
 そのまましばらく微睡んでいたが、不意に廊下で物音がした。碧はどきりと胸が震えた。何かが転がるような音。そして、誰かが走って行く足音――紅だろうか? それにしては、どこか急いているような……。
 碧は体を起こしかけたが、頭がずきりと痛んで断念した。今は休めと紅にも言われたのだ、と自身に言い訳し、再び目を閉じる。廊下の足音は遠ざかり、また静寂が戻った。
 その後、碧は軽い眠りと覚醒を浅瀬のように行き来した。夢を見ていたようにも思う。何か恐ろしい夢――思い出せないが、胸騒ぎだけがあとに残る夢だった。浅い呼吸を繰り返しながら、碧は暗い天井をぼんやりと見つめていた。
 やがてコンコン、と扉を叩く音がした。碧が「はい」と返事をすると、紅が静かに入ってきた。
「具合はどう?」
「……だいぶ楽になりました」
 嘘だった。本当はまだ頭痛は残っていたし、手足の倦怠感も抜けきっていなかった。それでも少しはマシになったので、碧は起き上がろうとした。だが紅が「まだ横になっていて」と制した。
「もう夕食の時間も過ぎたし、旦那様もお部屋にお戻りよ。今日のところはゆっくり休んで、明日に備えましょう」
 紅はにこりと笑ってそう言った。碧は申し訳なさに心を苛まれながらも、紅の言葉に甘えるしかなかった。
「本当にごめんなさい、紅さん……私、ドジばかりで……」
「気にしないで。最初は誰だって失敗するものよ。わたしも今までに何度か
“おまじない”を飲まされて、最初こそ吐き気に悩まされたけれど、何日かすれば大抵ケロッと治ってるから、あまり深く考えないようにしてきたわ」
 紅はそう言って軽く肩をすくめると、くすっと笑う。
「変に意識すると余計にだるくなる気がするし……迷信だと思えば気も楽でしょう? わたしはそう割り切ってきたの。碧さんも今はあまり考えすぎないで、ちゃんと寝て体を休めれば、きっと明日には良くなるわ」
 紅は楽しげに笑った。碧もつられて微笑む。しかし胸の中には小さなしこりが生まれているのを感じた。迷信、か。本当にそうだろうか?
 そのとき、紅はふっと視線を落とし、わずかに眉を寄せた。
「……紅さん?」
「ごめんなさい、なんでもないの。ちょっと立ちくらんだだけだから」
 紅はすぐに顔を上げ、笑みを取り戻す。
 それでも碧には、紅の唇の端が一瞬かすかに震えたように見えた。気のせいかもしれない——今の碧には考えがまとまらず、ただ困惑するばかりだ。館の主人も紅も、悪意があって妙な薬を飲ませるような人たちには見えない。あれはあくまで好意からの行為、古い伝承に従っただけ――そう信じたかった。
 碧は「おやすみなさい」と声をかけて部屋を出て行く紅に礼を言い、再び静寂に取り残された。月明かりだけが薄く床を照らし、辺りはしんと静まり返っている。
「ああ……なんて馬鹿なことを考えているの……」
 碧は自嘲気味に呟いた。疑心暗鬼になるなんて、自分が情けない。もしかしたら、ただ嵐で漂流した疲れが今更出ただけなのかもしれないじゃないか……。
 そう言い聞かせて、碧は毛布を引き寄せた。何もかも忘れて眠ってしまいたかった。瞼を閉じると、再び暗闇が意識を覆う。
 遠くで波の音が囁いている。耳の奥に残る鈍い鼓動。それらが徐々に溶け合い、碧は深い眠りに落ちていった。


## 第四章 盲目の少女の警告


 ある晴れた午後、館に珍しく来客があった。これまで主人は公の場にあまり出ず客人を招くことも滅多になかったが、この日は古い友人が娘を連れて訪れるという話だった。館に仕える者として、紅も碧も朝からその準備に追われた。客間の清掃に始まり、ティーカップの揃え、菓子の用意――久しく賑わいのなかった邸に、少しだけ活気が戻ったようだった。
「今日のお客様、娘さんがご一緒だなんて珍しいわね」
 廊下を行き来しながら、紅が微笑んだ。碧もエプロンの裾で汗を拭いつつ頷く。
「そうですね……どんな方でしょう」
 聞けば、客人は主人の旧友で、町外れの教会に勤める神父だという。その娘はまだ十歳ほどの少女らしいが、生まれつき目が不自由なのだとか。紅は「そのぶん感受性が豊かで可愛らしい子らしいわ」と教えてくれた。
 正午過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。碧と紅は正装姿で扉の前に並び、出迎えのため扉を開ける。現れたのは、中年の穏やかな顔立ちの紳士と、その手を取った小柄な少女だった。
「ようこそおいでくださいました」
 紅が丁寧に頭を下げて挨拶する。紳士――マクシミリアン神父と名乗った――はにこやかに微笑んだ。
「どうも、突然の訪問を受け入れてくださり感謝します。私は主人の古い友人でね。今日は娘をお披露目がてら参りました」
「まあ、お嬢様でいらっしゃいますか」
 紅が少女に優しく声をかける。少女はつつ、と父親の影から一歩進み出た。純白のワンピースを着た可憐な子だった。年の頃は噂通り十歳前後か。長い黒髪をきちんと編み込みにして肩に垂らしている。だが碧の目を引いたのは、その顔立ちよりも閉ざされた瞼だった。少女の瞳は薄く開いているが焦点が合っておらず、虹彩の色はどこか濁って見えた。彼女は目が見えないのだ。
「こちらは娘のエリーゼです」
 神父が紹介すると、少女はおずおずと頭を下げた。
「エリーゼ様、いらっしゃいませ。お久しぶりにお目にかかります、紅と申します。こちらは碧といいます」
 紅が二人を紹介し、碧も慌てて一礼した。
「こんにちは、エリーゼ様。お会いできて嬉しいです」
 碧が声をかけると、エリーゼと呼ばれた少女は顔を上げた。瞳は碧の方を向いていないが、その小さな顔には微かな笑みが浮かんでいる。
「こんにちは……碧さん」
 あどけない声だった。碧は胸が温かくなるのを感じた。こんな幼い子が目が見えないというのは気の毒だったが、その分人一倍感じ取るものがあるのだろう。エリーゼは碧の声に耳を傾け、居場所を確かめるかのように小さな手をそっと伸ばしてきた。碧は驚きつつも、そっとその手を取った。小鳥のように軽く冷たい手だった。
 紅が主客を応接室に案内していく。碧はエリーゼの手を引き、一緒に後に続いた。
 応接室では温かな紅茶が待っていた。マクシミリアン神父と主人は旧知の仲らしく、すぐに打ち解けて笑い声が上がった。二人は革張りのソファに腰掛け、積もる話に花を咲かせている。エリーゼは父親の隣におとなしく腰を下ろしていたが、話に加われず退屈そうでもあった。主人が気遣って「娘さんに庭を案内してあげては」と紅に目配せする。
「ではエリーゼ様、よろしければお庭を散歩なさいますか?」
 紅が優しく声をかけると、エリーゼは嬉しそうに頷いた。彼女は少し強張っていた表情を緩め、立ち上がった。
「碧さんも一緒に行きましょう。わたくしたち三人でご案内しますわ」
 紅はにっこり笑い、エリーゼのもう片方の手を取った。こうして碧と紅に挟まれる形で、エリーゼはゆっくりと歩き出す。廊下を抜け、裏口からバラ園へ出た。
 潮風に乗って甘い薔薇の香りが漂う。色とりどりの薔薇が初夏の日差しに映えていた。エリーゼは顔を上げ、目を閉じたままくんくんと香りを嗅いだ。
「いい匂い……」
「ええ、とても綺麗に咲いているのよ。ここは海風が強いのに、立派な薔薇がたくさん育っていて……」
 紅が言うと、碧もゆっくりと花壇の縁を歩きながら説明を添えた。エリーゼは静かに耳を傾け、ときおり「素敵」と小さく相槌を打つ。碧はふと、彼女の横顔が安堵しているように感じた。狭い室内より広い外の方が、目が見えない彼女には心地良いのかもしれない。
 ふとエリーゼが少し鼻をひくつかせ、首を傾げた。
「……なんだか、変わった匂いがする」
「匂い?」
 碧が不思議そうに問い返す。エリーゼは目が見えない代わりに嗅覚が鋭いのだろう。紅は花壇に咲く薔薇を見回して、「香りが混ざっているのかしら」と微笑んでみせたが、エリーゼは首を横に振った。
「違うの。バラの香りとも、海の潮の香りとも違う、もっと……どこか苦い香り。近くから漂ってくるみたい」
 言われてみれば、と碧は軽く鼻を鳴らしてみた。しかし潮風とバラの甘い匂いに紛れて、特別変わった香りは感じ取れない。紅も「そう?」と小首をかしげるだけだ。
「たぶん……ごめんなさい。わたしの嗅覚が敏感すぎるのね」
 エリーゼはかぶりを振って小さく笑みを作った。しかしその笑顔にはどこか不安げなものが混じっていた。碧は胸騒ぎを感じたが、何も言えずに、ただエリーゼの手を引いて歩みを進める。
 バラ園を一巡りした後、三人は庭の奥へと足を向けた。館の裏庭は広く、海岸へ続く崖に沿ってなだらかな草地が伸びている。その隅に、石造りの古井戸がぽつんと佇んでいた。今は涸れて久しく、水はない。縁には苔がむし、木蓋がかぶせてある。誰も使わなくなったその井戸は、庭の美しさとは対照的に寂しげな存在感を放っていた。
「ここには古い井戸があります。もう水は出ないんですけどね……」
 碧が説明すると、エリーゼはなぜか怖じけるように立ち止まった。細い指が碧の腕をきゅっと掴む。
「どうしたの?」
 紅が不思議そうに尋ねる。エリーゼはしばらく沈黙した。見えない目を伏せ、風に揺れる木立の音に耳を澄ましているようだ。次に口を開いたとき、その声は小さく震えていた。
「……さっきからずっと、あの苦い匂いがついて回る。さっきより濃くなった気がする……」
 碧と紅は思わず顔を見合わせる。井戸の近くに特別な植物が生えているわけでもない。どこから漂っているのだろうか。エリーゼは不安げに唇を噛んだ後、か細い声で言い添えた。
「ごめんなさい、わたし、あまりよくわからないの。ただ……紅さんのそばに来ると、匂いが強まるような気がするの」
「……え?」
 紅が呆然として立ち尽くす。碧も息を飲んだ。エリーゼは申し訳なさそうに紅の方向を向き、頭を下げるようにして言う。
「失礼なことを言っていたらごめんなさい。でも……ちょっとだけ、胸の奥が痛くなるような、嫌な匂いなの。バラの甘い香りに混じって、何か腐った花のような――」
「エリーゼ様、それは……」
 碧が止めようとするが、エリーゼは言いかけていた言葉を飲み込んだ。井戸の木蓋が風にきしむ音が響く。紅は肩を小さく震わせ、ぎこちなく笑った。
「大丈夫よ、エリーゼちゃん。香水の成分が合わないのかも。ごめんなさいね、いやな思いをさせちゃって……」
 そう言って紅はエリーゼの手を優しく掴む。しかし、その声には微かな動揺が滲んでいた。碧は胸騒ぎを覚える。もし“苦い匂い”が、紅の体から発せられているのだとしたら……? だが、いったいどうして。
 エリーゼは井戸のほうへ視線を向けるように首をめぐらせた。もっとも、その瞳には光がない。しかし聞こえてくる風の音に耳を澄まし、かすかに背筋を震わせる。
「……ここ、あまり長く居たくない。悲しい声が聞こえる気がする」
 さらにエリーゼは呟き、そっと碧の袖を掴む。碧はドキリとした。紅も眉を寄せている。昼間の陽光が燦々と照らす裏庭なのに、何かひどく不吉な空気を感じさせる。
「じゃあ、戻りましょうか」
 碧が提案すると、エリーゼは小さく頷いた。そして紅の腕をたぐり寄せるようにして、ごく小声で言い添えた。
「紅さん、あなた……大丈夫? わたし、あなたが苦しそうにしているような……そんな匂いがするの。なんだか、胸が痛むの」
「……え?」
 紅の瞳が揺れた。エリーゼは居心地悪そうに唇を噛む。
「うまく言えない。身体が弱っている人から漂う、鉛みたいな苦い香りがあるの。以前、神父の施設にも病人がたくさんいて……その人たちが亡くなる前に同じような匂いを放つことがあったの」
「エリーゼ様、それは……」
 碧が言葉を失う。紅も何も言えずに俯いた。沈黙が三人の間に重く落ちる。エリーゼはどこか悲しげに微笑むだけだった。
「……ごめんなさい、嫌な気持ちにさせたら。そんなつもりじゃないの。ただ、紅さんは本当に大切にしたい人がいるのね、って思ったの」
「……え……?」
「だから、早く病院に行ったほうがいい。あなたの大事な人に、あなたのつらい顔を見せることなんて……したくないでしょう?」
 エリーゼの幼い声が悲痛に響く。紅の瞳に微かな涙が浮かんでいるのを、碧は見逃さなかった。しかし紅は笑顔の仮面を被りなおし、エリーゼの手を引いて言った。
「……ありがとう。大丈夫よ、私は平気だから。さあ、館に戻りましょうか。少し涼しい風が強くなってきたものね」
 そうして三人は井戸を後にした。碧はエリーゼが言い残した言葉を何度も頭の中で反芻する。「あなたの死に顔を見せるなんて、したくないでしょう?」――まるで紅が近く死を迎えることを確信しているかのような、意深な言葉だった。
 その後の見送りの際、エリーゼは再び紅に触れ、小さく囁く。
「ごめんね……ひどいことを言って」
「いいのよ。優しい子ね、あなたは」
 紅は微笑み、頭を撫でた。しかしその横顔はどこか影を帯びていた。碧は横で見守りながら、やりきれない不安を抱え込む。エリーゼにはわからないものが見えているのか。紅は何も否定せず、ただ言葉を濁したままだ。
「あ、あの……戻りませんか? 日差しが強いですし……」
 碧は震える声で提案した。
「……ええ、そうね。ごめんなさい」
 そう呟くと、彼女は井戸から手を離れた。紅も微妙に顔を強張らせている。誰も何も言わず、三人は館へと引き返した。
 館の中に戻ると、応接室から主人と神父の笑い声が響いてきた。取るに足らない昔話で盛り上がっているのだろう。紅はエリーゼを伴い、再び応接室へ向かう。碧も後に続こうとしたが、そのとき袖を引かれた。エリーゼが立ち止まって碧の服を掴んでいる。
「エリーゼ様?」
 碧が身を屈めると、エリーゼはそっと碧の耳元に顔を寄せた。そして小さな声で囁く。
「……あなたたち、ここに居てはいけないわ」
 碧は息を呑んだ。何を突然――と思う間もなく、エリーゼはさっと身を引いた。まるで今の言葉を悟られまいとするかのように。
「エリーゼ、どうしたんだい?」
 父親の声に、少女は「ううん、なんでもないの」とかぶりを振った。先ほどの不思議な表情は消え、何事もなかったかのようにおとなしい顔に戻っている。碧は茫然と立ち尽くした。
「それでは旦那様、失礼いたします。また改めてお話いたしましょう」
 神父が主人に別れを告げ、紅が玄関先まで二人を案内していった。碧は軽く礼をして見送ったが、内心は先ほどの囁きがこだまして上の空だった。
「ここに居てはいけない」――エリーゼは確かにそう言った。なぜだろう? この館にいてはいけない? それは警告なのだろうか。あの少女は何かを感じ取ったのか? 盲目ゆえの勘というものか、それとも……。
 紅が扉を閉めて戻ってきた。彼女も沈んだ顔をしている。ややあって、紅はぽつりと呟いた。
「……少し、歩きましょうか」
「はい……」
 二人は連れ立って玄関を離れた。まだ日は高いが、館の中は薄暗くひんやりしている。二人は誰にともなく廊下を進み、中庭に面したサンルームに入った。ガラス張りのその小部屋は普段使われていないが、外光が十分に差し込むため気分転換にはもってこいだった。
 アイアン製の白い椅子に腰掛け、紅と碧は顔を見合わせた。潮風が窓越しに吹き込む。緑の葉擦れの音が耳に心地よい。
「……エリーゼちゃん、何を言ったの?」
 沈黙を破ったのは紅だった。彼女もさすがに気になっていたのだろう。碧は観念して素直に口を開いた。
「……ここに居てはいけない、って……」
 それだけで紅は察したようだった。彼女は静かに目を伏せ、テーブルの上で両手を組み合わせた。
「やっぱり……そう聞こえたわ。玄関で見送りのとき、エリーゼちゃんがあなたに何か言ったのは見ていたの。もしかしたら、と思って……」
 紅は顔を上げ、眉をひそめた。
「確かに、あの子は何か感じ取っていた。“匂いがする”なんて。あれには驚いたわ」
「あれは……どういう意味なのでしょう」
 碧が問いかけると、紅は難しい顔をした。
「分からないわ。ただ……思い当たる話はあるの」
「思い当たる話?」
 碧が訊ね返すと、紅は小さく頷いた。外の光が彼女の横顔に影を落とし、どこか物憂げに見える。
「この館の昔の話よ。私もここへ来る前に噂で聞いただけなんだけれど……」
 紅は少し間を置き、それから語り始めた。
「この館には古くから、若い女性の幽霊が出るって噂があるの。特に、裏庭の井戸にまつわる話。――昔、ある女中さんが井戸に身を投げて死んだんですって。それ以来、夜になると井戸の底からすすり泣く声が聞こえる、って」
 碧は息を飲んだ。「すすり泣く声」という言葉が頭に突き刺さる。あの夜、確かに聞いた。夢か幻か区別がつかなかったけれど、耳に残った悲痛な泣き声。それは幽霊の仕業だというのだろうか。
 紅は続けた。
「実際に聞いた人はいない、と旦那様は笑って否定していたけれど……でも、エリーゼちゃんには聞こえた。それに碧さん……あなたも何か聞いたの?」
 鋭い指摘だった。碧が隠し通せるような空気ではなかった。彼女は観念して頷く。
「はい……実は、お恥ずかしいのですが。来て二日目の夜、すすり泣くような声を聞いた気がしたんです。夢だと思おうとしたのですけど……エリーゼ様の発言で、現実だったのかもしれないと……」
「そう……」
 紅の表情が曇った。彼女はしばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「何だか……嫌な感じね。エリーゼちゃんが言った『ここに居てはいけない』というのもただの気まぐれとは思えないわ」
「ええ……私もです」
 碧はぎゅっと両手を握りしめた。胸の鼓動が速まる。不安が全身を駆け巡り、椅子に座っていられないくらいだった。幽霊がどうとか、噂話だけなら笑って済ませられたかもしれない。だがあの少女の表情と言葉には、確かに何か切迫したものがあった。無視してはいけない――そんな気がしてならないのだ。
「紅さん……」
 紅は取り繕うようにランプに火を灯しはじめた。やがてサンルームにも灯火がともり、壁に暖色の光が揺れた。
 紅は立ち上がった。
「碧さん、夕食の支度を手伝ってくれる?」
「あ……はい」
 碧も慌てて席を立つ。話の続きをしたい気持ちは山々だったが、今は執務に戻らなくてはならない。二人は暗黙の了解で話題を打ち切り、台所へと足早に向かった。
 だが、碧の胸にはもはや小さくない疑念が灯っていた。館で起きる奇妙なできごと、それに謎めいたおまじない。盲目の少女が残した警告――それらが点と点となって繋がりだす。形にならぬまま、暗い予感だけがじわりと心を蝕んでいた。


## 第五章 秘密の部屋


 エリーゼ親子の訪問から一夜が明けた。盲目の少女の言葉と、紅と交わした会話は、碧の胸の内で重く沈殿していた。何かが起ころうとしている――あるいは、既に起こっていて、自分たちはそれに気づいていないだけなのではないか。もはや以前のようにのんびりと日常を送ることなどできなかった。
 翌朝、碧は朝食を食べながらも心ここにあらずだった。夜通し考えたせいで目が冴えている。(本当にこのまま日常業務をこなすだけでいいの? あの娘は「ここに居てはいけない」って……)腕を動かすたび、微かに指先が痺れる。あの「おまじない」の後遺症なのかもしれない。朝食の席で主人の顔を見るのもどこか恐ろしく、なるべく目を合わせないようにしてしまう。昨夜、紅と話して以来、館の主人の笑顔の裏側に何か隠されているのではと疑ってしまうのだ。
 決心したように、碧は紅に声をかけた。
「……紅さん、少しいいですか。あの、昨日のことなんですけど……」
 だが紅もまた沈んだ表情で、「ごめん、あとでゆっくり話そう。今は朝食の片付けを急がなきゃ……」とすぐに行ってしまう。結局、碧は一人取り残されたまま、どうしていいかわからず廊下に立ち尽くすしかなかった。
 ――その夕方、旦那様が馬車で街へ出かけると聞いたとき、碧の胸は嫌な予感と妙な期待で揺れた。
(主人がいないなら、今こそ……!)
 紅と目が合う。互いに一言も交わさぬまま頷き合い、ふたりは廊下の奥の扉に向かって駆け出していた。
二人が向かったのは、二階の奥まった一角だった。普段掃除の際にもあまり近づかない領域で、客用の寝室などが並ぶ廊下の突き当たりに、小さな木の扉があった。碧はその存在にこれまでさして注意を払っていなかったが、紅は違ったらしい。扉の前で立ち止まり、じっと取っ手を見つめている。
「ここは……?」
 碧が囁くと、紅は振り返り、逡巡するように唇を噛んだ。だが意を決したように頷く。
「実はね、この部屋……私たちは鍵を渡されていないの。でも、以前廊下を掃除していたとき、旦那様が中から出てくるのを見かけたの。何か用があるのかしらと思ったけれど、そのときは気に留めなかった。でも……」 この部屋こそ、何か秘密があるのではないか――紅の表情がそう語っている。碧も息を呑んだ。確かに、館の中で自分たちが一度も入ったことのない場所があるとすればここだ。古びた木製の扉は、周囲の壁紙とも調和せず、まるで異質な空間への境界線のようだった。
「開けてみましょう。鍵はかかっているかもしれないけれど……」
 紅が取っ手に手をかけ、そっと回してみた。カチリ、と乾いた音がしただけで、扉はびくともしない。やはり鍵はかかっているようだ。紅は次にエプロンのポケットからヘアピンを取り出した。
「昔、妹の宝箱を開けるのに使ったことがあるの……試してみるわ」
 予想外の紅の器用さに驚きつつ、碧は見張りのように背後を気にしたが、主人も不在の今、二人に気を留める者はいなかった。
 紅は髪から抜いたピンを鍵穴に差し込み、器用に手首を捻った。カチャリ、カチャリと小さな音が響く。しばらく格闘していると、不意に乾いた音がして扉が僅かに開いた。
「開いた……!」
 紅がささやき、碧はどきりとした。だが紅は続けて奇妙なことを言った。
「鍵は最初からちゃんとかかっていなかったみたい……ただ少し固かっただけのようね」
 そう言って、紅はゆっくりと扉を押し開けた。
 中から澱んだ空気が流れ出てきた。長い間閉ざされていた空間特有の、ほこりっぽさと湿気が混じった匂いが鼻をつく。碧は思わず口元を覆った。紅が足を踏み入れるのに続き、碧も怯えながらも中を覗き込んだ。
 部屋の中は暗かった。小窓があるが厚手のカーテンで閉ざされており、僅かな隙間から夕闇の光が漏れ入るだけだ。紅は灯油ランプを用意していたのか、かばんから取り出してマッチで明かりを灯した。芯の燃える音がかすかにパチパチと響き、僅かに明滅する青白い炎の輪が室内を照らした。
 そこは広くはない部屋だった。壁際に古いソファとテーブル、そして奥に書棚と箪笥がある。テーブルの上には白い布がかぶせられており、その上に幾つかの額縁が立て掛けられていた。紅がそっと近づき、布の端をめくる。ほこりがふわりと宙に舞い、碧はくしゃみを堪えた。
「肖像画……?」
 紅が呟く。ランプの仄かな光に照らされて現れたのは、一枚の油絵だった。若い女性の肖像画だ。鮮やかな緑色のドレスを纏った可憐な女性が、微笑を浮かべてこちらを見ている。どこかで見覚えがある……否、それは知らない顔のはずなのに、碧は奇妙な既視感を覚えた。
 紅がさらに布を捲り上げる。下には何枚もの額縁が重ねて隠されていた。出てくるのは全て女性の肖像だ。中には写真と思しきものもある。碧は震える手で一枚の額を手に取った。それは白黒写真で、メイド服姿の少女が写っている。無表情に遠くを見つめるその少女――よく見ると、どことなく碧に似ている気がした。
「碧さん、これ……」
 紅が別の写真を差し出してきた。見ると、映っているのは確かに紅その人だった。細部は少し違うが、紅い髪といい、柔和な笑みの雰囲気といい、紅によく似た少女がそこに立っている。いや、紅自身ではない。これは彼女が来る前の時代の写真に見える。だが――
「私……に似ているわ」
 紅は顔を強張らせて写真から目を離さない。碧も恐る恐る周囲を見渡した。棚にずらりと並べられた額縁。光を反射して並ぶ無数の少女たちの顔。そのどれもが、今の自分たちにどこか面影が似通っているように思えるのだ。
「どういうこと……?」
 碧は喉が渇き、声が掠れた。この館でかつて働いていた娘たちなのだろうか。それにしても、なぜこんなに何人も?
 紅は箪笥に歩み寄った。引き出しを開けて中を探る。碧も我に返り、書棚の上の様子を窺った。埃をかぶった本が何冊かと、革張りの手帳のようなものが数冊積まれている。碧は震える指先で一番上の手帳を手に取った。
 灯りの下でページを繰る。中にはびっしりと細かな字が綴られていた。日記……だろうか。最初のページには少女らしい癖字で名前と日付が書かれている。「イングリッド・オロフソン1802」――古い年代だ。この館は中世に建てられたという話を聞いたことがある。オロフソンは貴族階級の名字にはそぐわない名だ。当時雇われていたメイドだろうか?
 碧はめくる手を早め、後半のページに目を走らせた。日付が進むにつれ、文章は乱れ、焦燥した筆跡になっていく。断片的な内容を拾い読みする。
 「……最近、手の震えが止まらない……時折めまいがして倒れてしまう……ご主人様もお医者様も『すぐによくなる』と言ってくださるけれど……」  
 「……また器を割ってしまった。主人様は笑って許してくださった……『おまじない』を飲めば大丈夫だと……だけど、飲めば飲むほど苦しくなる……」  
 「……リネアがこの館を去った。あの子もきっと戻っては来ないだろう。次は私……? 夜毎亡霊が枕元に立つ……私を井戸の底へ誘うの……」  
 「……神に救いを求めて祈った……けれど、もはや天に届く声も出ない……助けて……」
 そこで文字が途切れていた。最後のページはインクが大きく擦れ、読めない。ところどころに涙の跡のような滲みがあった。
 碧は息をするのも忘れていた。凍えるような戦慄が全身を駆け抜ける。手が小刻みに震え、日記を掴む指に力が入らない。「おまじない」という単語がはっきりと書かれていた。器を割り、おまじないを飲むほどに苦しくなる――まさしく自分が今回体験していることだ。
「碧さん……これを」
 紅がかすれた声で呼んだ。振り返ると、彼女も別の手記のページを開いている。誰の手記だろうか? 碧が震えながら近づくと、紅はゆっくりと読み上げた。
「……『紅茶の皿を割った罰として奇妙な薬を飲まされた。それはとても甘く、しかし喉の奥に絡みつくような不快な味……飲んだ後は体が熱くなり、酷く眠い……何度も何度も飲むうちに、吐き気と震えが止まらなくなっていった……』」
「やめて……!」
 碧は思わず叫んで紅の手を掴んだ。声が震えていた。もう聞きたくなかった。これ以上、この部屋で何かを知ることなど耐えられそうになかったのだ。紅ははっとして顔を上げた。碧の蒼白な表情に気づき、口を噤む。
「ごめんなさい……もう充分ね……」
 紅は日記帳を閉じた。その頬にも青ざめた影が射している。
「ここにいる子たちは……皆……?」
 碧が周囲のメイドと思われる少女の描かれた肖像画に目を遣る。紅は静かに頷いた。
「ええ、多分……皆この館で働いていた娘たちよ。時代は違うかもしれないけれど……代々、若い娘が雇われては、そして……」
 言葉に詰まる。はっきり「死んだ」と言うのははばかられた。しかし、状況は雄弁に物語っている。日記には助けを求める悲痛な叫びが記されていた。そして、その記述はぷつりと途切れている。つまり、その先を書き残す人はもういなくなったということだ。
 碧は壁の一角に貼られている貼り紙に目を止めた。それは見取り図のような紙だった。古めかしい字で人名が列記されている。おそらく以前の雇い人の名簿だろうか。一番下の名前の横に、小さく赤い印がついているのが見えた。それは……
「……紅さんの名前……?」
 碧が指差すと、紅も貼り紙を覗き込んだ。確かに、紅という名が記され、名前を横切るように線が、そしてその横に赤いインクで無数のタリーマーク(日本語の正の字のように数字を数えるための記号)が引かれている。その一つ上には碧の名もあった。まだ碧の名には線は引かれていなかった。
「どういうこと……? まるで……処理簿みたいね……なぜ辞めた人の名前に赤線を引いているの?」
 紅の声はかすかに震えている。自分の名前に引かれた赤線とタリーマークが、嫌な予感を如実に示していた。まるで既に処理が済んだ者として扱われているような――否、それはつまり、死者として線を引かれたのではないか?
 碧は片端から貼り紙の名前に目を走らせた。そこにはおそらく数十名もの女性の名前が並んでいる。名前のほとんどに赤線が引かれ、残りの名も僅かだった。碧と紅以外では、一名だけ線のない名前があったが、すでにこの館を去ったというメイドだろうか。紅が話していた「体調を崩して辞めた若い使用人」も、あるいはその一人だったのかもしれない。だがここに残っていない以上、その人も結末は想像に難くない。
「……許せない」
 抑えた声で紅が言った。碧がはっとして紅の顔を見つめる。紅の瞳は静かな怒りに燃えていた。震える拳を固く握りしめ、唇を噛み締めている。
「こんな……こんなの間違ってるわ。人の命を何だと思っているの……!」
 紅が声を荒げそうになるのを、碧は慌てて制した。「紅さん、静かに……!」
 部屋の外に気配はない。だが、誰かに聞かれれば大変だ。二人は息を潜め、耳を澄ました。どこからも物音はしない。
「ごめんなさい……私、つい……」
 紅が悔しげに眉を寄せる。その顔には怒りと同時に恐怖も滲んでいた。碧も同じ気持ちだ。怒り、悲しみ、恐れ、様々な感情が胸の中で爆発しそうだった。彼女はふらつく足取りで部屋の中央から後ずさった。
「ここから……出ましょう、紅さん。早く……」
「ええ……」
 紅も頷く。十分すぎるほどの証拠を目にした今、これ以上ここに留まっている意義はない。それよりも早く扉を閉ざし、元の状態に戻さねばならない。二人は足早に部屋を出て、そっと扉を閉めた。鍵は壊れていたが、もともと掛かっていなかったのだから問題はあるまい。紅が持参していた小さな針金を内側から掛け金代わりにねじ込み、扉を閉じた。簡単には開かないだろう。
「大丈夫……?」
 廊下に戻り、紅が震える碧の肩に手を置いた。碧はこくりと頷いたが、その顔色は紙のように青白かった。息が荒くなり、喉がひりつくように痛い。めまいもして、立っているのがやっとだった。
「ごめんなさい、こんなことに巻き込んで……でも……知ってしまったからには、放っておけないわ。碧さん、私が……私が守るから。だから……」
 紅が碧の両手をぎゅっと握りしめた。その瞳が涙で潤んでいるように見えた。
「紅さん……」
 碧は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。自分を守る? 何から? もう分かりきっている。彼女たちを死へと追いやろうとしている何かから、だ。ではそれは――館の主人? 「烏」を思わせる、あの微笑の裏には怪物が潜んでいるのか?
 ぼんやりと霞む意識の中で、碧は盲目の少女が囁いた声を思い出していた。「ここに居てはいけない」――あれは決して気のせいなどではなかった。この館に渦巻く呪いじみた運命。それを断ち切るには、もはや逃れるか立ち向かうかしかないのだ。
 碧は唇を噛みしめた。怖い。今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。だが紅の温かな手が、自分を強く現実につなぎとめている。この人は自分を守ると言ってくれた。では自分はどうする? 守られるだけでいいのか? 紅だって危険なのに。
 その時、階下から主人が呼ぶ声がした。どうやら戻ったらしい。馬車の車輪の音が遠くから聞こえてくる。碧と紅は顔を見合わせ、息を詰めた。
「旦那様が……」
 碧の喉が空気を呑み込む。紅は歯噛みして顔を伏せた。握りしめた手に力が籠もる。
「……碧さん、覚悟を決めなくてはならないわ。わたしたちがこの館で生き延びるために、できることを」
 低く押し殺した声で、紅が言った。彼女の表情には恐れと決意が同居している。
 碧はその言葉の意味を飲み込んだ。生き延びるためにできること――それが何なのか、明確には言われなくてもわかってしまう。悲しいかな、それ以外に道はないのだ。
 二人は無言のまま、来た道を引き返した。帰ってきた主人に悟られないよう、平静を装って。だが胸の内には、廊下のランプの炎のような激しい感情が渦巻いているのだった。

## 第六章 紅の決意


 夜が訪れた。館の中はひっそりと静まり返り、時折、遠く波の音が低く響くばかりだった。
 碧は自室のベッドに腰掛け、固く両手を握りしめていた。心臓は早鐘のように打ち続け、冷たい汗が額ににじむ。あの秘密の部屋で目にした光景が何度も脳裏に蘇り、胸が押し潰されそうだった。
 隣の部屋から微かな物音がした。紅の部屋だ。碧ははっとして顔を上げた。耳を澄ますと、何か戸棚を開け閉めする音、そして布をかき集める気配。紅が動いている。
 碧は意を決して立ち上がった。足元がふらつき、一瞬視界が揺れる。だが今はそんなことにかまっていられない。ゆっくりと扉を開け、廊下に出る。廊下のランプは既に消され、闇が支配していた。隣の紅の部屋の扉の下から、一筋だけ光が漏れている。
 碧はそっとノックした。すぐに扉が開き、紅が顔を覗かせる。彼女は普段のナイトドレスではなく、なぜか昼間と同じメイド服を身につけていた。上着の上にショールを羽織り、髪もまとめ直している。
「碧さん……起こしてしまったかしら?」
「いえ……眠れなくて」
 碧が掠れた声で答えると、紅は小さく微笑んだ。だがその瞳はどこか悲しみに沈んでいる。
「少し、外の空気を吸いに行こうと思って……あなたも来る?」
 紅の問いかけに、碧は一瞬ためらった。だが、その誘いには何か裏があると直感した。紅の声は上ずってはいないが、かすかに震えて聞こえる。まるで決心を固めた者の声だ。
「……はい。一緒に行かせてください」
 碧が頷くと、紅は片手に提灯を下げた。小さなオイルランプに火を灯し、廊下を行く。碧もその橙の光に続いた。
 館の玄関は既に施錠されていたが、紅は合鍵を持っていた。錠を静かに外し、二人は夜の邸を抜け出した。
 外は肌寒かった。潮風が闇の中から吹きつけ、星空に薄雲がかかっている。月は翳り、足元もおぼつかないが、紅の提灯が足元を照らしてくれた。
「どこへ……行くのですか?」
 碧が囁くように尋ねると、紅は振り返らずに答えた。
「裏庭まで行きましょう。あの井戸のところ……」
 碧は一瞬足をすくませた。あの涸れ井戸。この夜更けにそこへ? 嫌な胸騒ぎがする。しかし紅の後ろ姿は毅然としていた。碧は不安を抱えながらも従った。
 やがて二人は井戸のそばに立った。昼間、エリーゼが手を触れたあの古井戸だ。周囲には誰もいない。夜闇の中で、錆びた滑車が風に軋む音が微かに聞こえる。
 紅が提灯を地面に置き、振り返った。ゆらゆらと揺れる火が彼女の足元から赤い影を壁に投じている。
「碧さん……寒くない?」
「平気です。それより……どうしてここに?」
 碧が震える声で問い返すと、紅はそっと碧の両肩に手を置いた。その瞳がまっすぐに碧を見つめる。灯火に照らされた表情は覚悟に満ちていた。
「ごめんなさい……碧さん。あなたを巻き込みたくなかったの。けれど、もう隠せないわね。私、決めたの。このまま黙ってあの方の好きにはさせない。碧さんを、絶対に死なせたりしないって」
 紅の声は静かだったが、確固たる意志が込められていた。碧の胸がざわめく。
「紅さん……」
「お願い、聞いて。もし今のまま何もしなければ、あなたや、新たな女の子がいずれあの肖像画の中の娘たちと同じ運命を辿るでしょう。そんなの、絶対に嫌……!」
 紅の声が震えた。かすかな涙の光がその瞳に浮かんでいる。
「だから……私、戦うわ。この呪いみたいな運命と。あの人が元凶なら、私が止める。碧さんは、この先ずっと生きて、自分の人生を取り戻してほしいの」
 言い切ると、紅は碧の肩から手を離した。ショールに手をかけ、それを滑らせて地面に落とす。冷たい風が紅の髪をさらさらと揺らした。
「戦うって……どうするつもりですか? まさか……旦那様に何か……?」
 碧は息を呑み、その先を言えなかった。しかし紅はきっぱりと頷いた。
「あの方に、罪を償ってもらうわ。これ以上犠牲を出さないためにも……」
 ぞくりと寒気が走った。紅の口にした言葉の意味は明白だ。彼女は主人をどうにかするつもりなのだ。それ以外に、この絶望的な状況を覆す方法はない。しかしそれは――
「殺す……つもりですか……?」
 碧はその言葉を発するだけで精一杯だった。喉の奥が焼け付くように痛む。
 紅は答えなかった。ただゆっくりと身を屈め、提灯の傍らに隠すように置かれていた小瓶のひとつを手に取った。琥珀色の液体が揺れる。例のおまじないの薬瓶だ。紅はそれを見つめ、淡く微笑んだ。
「ええ、これを使って……あの人に飲んでもらうの」
 碧の背筋が凍った。紅は静かに語り始めた。
「あの部屋で、まだ封の開いていないこの薬瓶を見つけたの。おそらく次の“おまじない”のために用意されていたものだと思うわ。私はそっと持ち出したの」
 いつの間にか、紅はそんなことまでしていたのか。碧は驚愕した。紅は続ける。
「この薬は本来少しずつ飲ませて長い時間をかけて弱らせるつもりだったのでしょうけれど……大量に飲めばきっと……ね?」
 紅の微笑みは淡々としていたが、碧にはその笑みが悲しく見えた。
「旦那様に、これを……? そんなこと、どうやって……」
「幸い、旦那様は毎晩決まった薬を飲んでいらっしゃるの。眠りを深くするためのハーブティーをね。私はそれに混ぜるカモミールの分量を任されているわ」
 紅は瓶をそっと振った。とろりとした液体が中で揺れる。
「ずっとやってきた仕事よ。疑われてはいないでしょう」
「紅さん、まさかもう……?」
 碧は恐る恐る聞いた。紅はこくりと頷く。
「ええ、用意は済んだわ。今頃、旦那様は自室であのハーブティーを召し上がっているはず……」
 碧は反射的に館の方角を見やった。館の二階、主人の寝室があるあたりの窓に灯りがともっている。中で主人がまだ起きているのだろう。紅はその光を見据えた。
「私はこれから戻って、様子を見届けます。もし計画がうまくいけば……彼は安らかな眠りについたまま二度と目覚めないでしょう」
「紅さん……ダメです……そんな、危険すぎます……!」
 碧は涙声になった。紅は静かに首を振る。
「あの部屋をみて、わたしの体の不調の原因がわかったわ。わたしはもう、いつ死んでもおかしくないくらい毒に侵されてる。吐き気、痺れ、発熱……自分の身体だからわかるわ。このままじゃあと数週間もつかどうか。
 ならば、せめて碧さんを生かすため、奴を殺して呪いを終わらせたいの……私が終わらせるしかないの。碧さんまでこれ以上苦しませないために」
 紅が一歩近づき、そっと碧の頬に触れた。その手は冷えていたが、掌の感触は優しかった。
「お願い、ここで待っていて。絶対に部屋から出ないで。私、すぐに戻るから……」
「紅さん……!」
 碧の目に涙が溢れた。紅の決意は固く、説得できそうになかった。何もできない自分が悔しかった。せめて共に行くと言おうとしたが、紅は首を横に振る。
「これは私の役目。碧さんには手を汚してほしくないの……どうか、わかって」
 碧はその言葉に胸を突かれた。紅の真摯な瞳に、強く訴える光が宿る。結局、自分は守られる存在でしかないのかという悔しさはあったが、紅の思いを無下にすることはできなかった。
「……わかりました。でも……お気をつけて。もし危険だと思ったら、すぐに逃げてください。私……紅さんさえ無事なら、それでいいんです……!」
 涙声で懇願すると、紅は小さく微笑んだ。
「ありがとう、碧さん。大丈夫、きっと戻るわ。だから……信じて待っていて」
 碧は唇を噛み締めながら頷いた。紅は碧の肩を一瞬抱きしめ、それから身を翻した。提灯を拾い上げ、足早に館の方へ向かっていく。
 碧は茫然とその背中を見送った。暗闇に紅の姿が吸い込まれていく。夜風が吹き抜け、彼女の髪が翻った。まるで深紅の炎のように一瞬揺らめき、そして見えなくなる。
 残された碧は、膝の力が抜け、草地にへたり込んだ。心臓がひどく痛む。泣いている場合ではないとわかっていても、涙が次から次へと溢れて止まらなかった。
「お願い……どうか、無事に……」
 闇に向かって碧は震える声で祈った。紅の無事と、願わくば自分たちが生き延びる道を。ただただ神にも縋る思いで祈り続けた。
 時間の感覚がなくなるほど、碧はそこに座り込んでいた。震える両手を固く組み合わせ、耳を塞ぎたくなるのを耐えながら。遠くで波が砕ける音がする。何度も何度も、同じ波音が繰り返した。
 そして――館の方角から、微かに何かが割れるような音が響いた。碧ははっと顔を上げた。闇の中で目を凝らすが、何も見えない。だが確かに、硝子が砕けるような音と、重い物が倒れる音がしたように思った。
「紅さん……!」
 碧は立ち上がろうとした。だが紅の「待っていて」という言葉が脳裏にこだました。今行ってしまえば、紅の決意を踏みにじることになる。信じて待つと約束したのだ。
 しかし、悪い想像が次々に頭をもたげる。もし何かあったら? もし計画が失敗して、紅が危険に晒されていたら?
 碧は胸をかきむしった。待てない。やはり駆けつけるべきなのでは――
 そのとき、不意に館の二階の明かりがふっと消えた。まるで誰かがランプを吹き消したように、窓の灯火が闇に沈む。風が止み、凍てついた静寂が広がった。
 碧の鼓動が耳鳴りのように響く。この沈黙は何を意味するのか。全てが終わったのだろうか。いい結果なのか、悪い結果なのか、それさえもわからない。
 いても立ってもいられず、碧は駆け出していた。心が紅の元へ行けと命じている。約束を破ることになるけれど、もうそんなこと構っていられない。紅が戻るはずの道を逆に辿り、館の裏口から中へ潜り込む。
 館内も静まり返っていた。玄関ホールに入った碧は、闇の中手探りで進む。曲がり角で何か固いものに足をぶつけ、小さくうめいた。手で確かめると、倒れた花瓶だった。中の花も水も散らばっている。つい先ほどまで飾られていたものだ。それがなぜこんなところに? まさか、揉み合いにでも……。
 嫌な予感がさらに膨れ上がる。碧は急いで階段を上った。二階廊下は闇に沈んでいる。唯一、主人の寝室の扉だけが半開きになっており、隙間から薄明かりが漏れていた。
 碧は乱れた息を整え、扉に近づいた。中をそっと覗き込む。
 部屋の中にはランプの灯りが一つ点っていた。その下で、絨毯の上に、人影が横たわっている。息が止まる思いだった。誰かが倒れている……!
 碧は震える足で部屋に入った。ランプが照らし出すのは、一人の男性の体。館の主人だ。彼は仰向けに倒れ、目を閉じている。傍らには砕けたティーカップの欠片が散らばっていた。唇からは白い泡が微かに零れている。
「……旦那様……?」
 碧が恐る恐る呼びかけても、主人は反応しない。その胸は動いておらず、まるで眠るように静まり返っている。しかし、既に永遠の眠りについたことは明らかだった。
 碧は喉を詰まらせた。紅の計画は成功したのだ。主人は毒を飲まされ、命を落とした。しかし――
「紅さん……!」
 碧は辺りを見回した。だが部屋の中に紅の姿はない。主人の亡骸だけが残され、紅はどこにも見当たらなかった。
「紅さん! 紅さん!」
 碧は半ば錯乱しながら名を呼び、部屋を出て廊下に駆け出した。廊下には誰もいない。別の部屋かもしれないと、一つひとつ扉を開けて回る。しかし紅はいなかった。
「そんな……紅さん、どこ……?」
 どこか他に隠れているのか?碧は混乱し、ふらふらと廊下を彷徨った。すると、不意に廊下の隅にうずくまる影が目に入った。息を呑んで近づくと、それは紅だった。
「紅さん!」
 碧は叫んで駆け寄った。紅は壁際に背をもたせかけ、ぐったりと座り込んでいる。手元には薬匙が転がり落ちていた。
「紅さん! しっかりしてください!」
 碧は紅の肩を抱き起こした。紅の顔は真っ青で、唇が紫色になっている。目は虚ろに半開きで、焦点が合っていない。
「碧……さん……?」
 紅の口から掠れた声が漏れた。碧は涙を拭い、必死に微笑もうとする。
「はい、私です! だ、大丈夫ですか? 今手当てを……!」
「ううん……もういいの……終わったのよ……全部……」
 紅はか細い声で囁いた。碧は混乱した。
「紅さん、どうして……! あなただけでも助かれば……それでよかったのに!」
 紅は苦しそうに息を継いだ。震える唇で微かな笑みを作る。
「……ごめんなさい、碧さん。最初から……こうするつもりだったの……」
「え……?」
「秘密の部屋で見たあの手記……読んだでしょう? あれを見て、私……自分の症状がもう手遅れだって悟ったの。何度もおまじないを飲まされて……体がだいぶ蝕まれてたみたい」
 碧は喉を詰まらせた。紅が苦しげに首を振る。
「でも……それならなおのこと、生き延びる方法を探すべきだったんじゃ……!」
「……そんな時間は残ってなかった。だから、せめて……あの人を殺して終わりにしようと思ったの。これ以上、誰も苦しませないために……」
 床に転がる毒瓶が視界に入る。紅は目を閉じ、零れ落ちそうな涙を堪えながら続ける。
「……ごめんね。あなたを守るつもりが……あなたを巻き込むことになって……。守りきれなかった……」
「謝らないでください! 私、紅さんが死んでしまうなんて……嫌です……!」
 堰を切ったように涙が溢れた。碧は紅の手を両手で包み込み、必死に体温を与えようとする。だが紅の体温はどんどん奪われていくようだった。遠くで誰かがすすり泣く声がする。それは碧自身の声だと気づいても、もう止められなかった。
 紅は弱々しく微笑んだ。その顔はどこか幼く見えた。
「泣かないで……碧さん……。私、後悔してないの……あなたと出会えて……本当によかった……」
 碧は嗚咽を飲み込む。すると紅はふと虚空を見つめ、瞳を潤ませたまま懐かしげに瞬きする。
「不思議ね……今、たくさんの女の子たちが……私たちを見てる気がするの……あの部屋の肖像画にいた子たち……。ふふ……みんな優しい顔をしている……まるで私を……迎えに来てくれたみたい……」
「そんな……嫌です……行かないで……」
 碧は紅の手を握る力を強めた。しかし紅は静かに首を横に振る。
「……もう……時間が……ないの。碧さん……生きて……お願い……」
「嫌……嫌です……! 一緒に行きましょう……私も……一緒に……!」
 思わず口走った言葉に、紅はほんの少し目を見開いた。
「だめ……!あなたは……生きるの……幸せに……なるのよ……」
「紅さんがいない世界で、幸せなんて……!」
 碧は声を震わせて叫んだ。紅の目尻から涙が零れ落ちる。
「……ありがとう……そんなふうに思ってくれて……。でも……約束して……碧さん……」
 紅の呼吸が次第に浅くなっていく。碧は何度も首を振ったが、紅は微笑んで首を縦に振った。
「約束……するって……」
 震える声で乞われ、碧は泣きじゃくりながら「はい……」と頷いた。嘘でもいい、紅を安心させてあげなければ。今はそれだけを考えた。
 紅は満足したように微笑み、そっと碧に体を預けた。
「……よかった……。碧さん……だいすきよ……」
 最後の言葉は震える吐息とともに消え入り、紅の身体から力が抜けた。その首ががくりと垂れる。
「紅さん……? 紅さん……!」
 碧は紅の頬に触れた。返事はない。開かれたままの瞳はもう碧を映していなかった。
「あ……ああ……!」
 碧は声にならない叫びをあげ、紅の身体にしがみついた。温もりがゆっくりと失われていく。涙が止めどなく流れ、紅の頬にポタポタと落ちていった。
 どのくらいそうしていただろう。ふと、静寂の中で、自分の鼓動だけが大きく響いているのに気づいた。世界から全ての音が消えたようだった。碧は膝をついて紅を抱きしめながら、茫然と虚空を見つめた。
 碧の目にあの呪いがかった薬瓶が映った。僅かに甘い香りが残っているような気がした。あれが全ての元凶。憎むべき毒。しかしそれは同時に、紅と自分を結びつけたものでもあった。
 碧は震える手を伸ばし、その瓶を拾い上げた。琥珀色の液体が少しだけ残り、弱々しく揺れている。三割にも満たない量。それを見つめるうちに、胸をよぎる思いがあった。
「……ごめんなさい、紅さん。わたし……」
 碧はそっと紅の頬に触れた。冷たくなりかけた肌は微かな夜気を含んでいた。もう、この声は届かない。紅は二度と目を覚まさない。
 本当なら、どんな顔をして叱られたのだろう。けれど、もし紅がいま目を開けたら、きっと全力で止めるに違いない。――そう考えると、なぜかほっとする自分がいるのだ。
「……よかった……起きてこないで。あなたにこんなわたしを見られたくない……」
 呟いた言葉に胸が痛んだ。紅が生きていたらそんなこと望むはずもないのに、矛盾した安堵が胸を締めつける。たとえ自由の身となっても、紅のいない世界にわたしの居場所などないのだから――。碧は静かに立ち上がった。涙はとうに涸れている。俯いた視線の先で、床に転がる銀の匙が弱々しく光を反射していた。彼女はそれを拾い上げ、紅の命を奪った毒液がまだわずかに残る瓶をそっと傾ける。その雫が匙に落ちる音が、やけに大きく感じられた。
「……紅さん……すぐに、会いに行くから」
 掠れた声が微かに震えるが、もう戻る道はない。碧は銀の小さじを口元に運び、一気に飲み干した。とろりとした甘さが喉を焼くように流れ込み、同時に冷たい痺れがじわりと身体を侵し始める。頭がぐらりと揺れる感覚。視界が白んでいく中、唇を動かそうにも舌がしびれて動かない。かすかな吐息だけが胸を苦しく上下させる。
「……やっ……と……終われ……る……」
 言葉が上手く形にならない。口の中は異様な甘さに満たされ、吐き出すことすらできない。あの日、初めて飲んだときと同じ極甘の毒なのに、今は苦さすら感じなかった。むしろ愛おしいと思えてしまう。これは紅が託してくれた、“ふたりいっしょの終わり”なのだ。
 膝が崩れ落ち、碧はそっと紅の亡骸に寄り添うように横たわる。頬と頬が触れ合い、ひどく冷たいのを感じたが、それでももう恐怖はなかった。あるのはひたひたと押し寄せる眠気と、穏やかな静けさだけ。視界の隅で、転がった薬瓶のラベルがぼやけて見える。「一匙のおまじない」――なんて皮肉な名前だろう。だが、いまさら何を思おうと変わるものなどない。
「おやすみなさい……紅さん……また……」
 囁いた言葉は最後まで紡げなかった。最後の力で紅の指を握りしめる。ほどなくして意識が深い闇へと引きずり込まれ、その手も、声も、命も、すべてが融けるように消えていった。

## 第七章 碧の選択


  穏やかな朝だった。潮騒が遠くでささやき、カモメの鳴き声が微かに聞こえる。碧はふと目を覚ました。まばたきすると、天井板の木目が見え、カーテン越しには柔らかな陽光が差し込んでいる。まるで何事もなかったかのように、部屋の中には朝の気配が満ちていた。
「……ここは……?」
 碧は寝台の上で身じろぎした。温かな毛布に包まれ、腕を動かすと心地よい痺れが走る。嘘のように自由で、どこも痛まない。つい先ほどまで、死の深淵に沈んでいたはずなのに……。
「私……生きているの……?」
 そう呟いた時だった。扉の向こうから懐かしい声が響いた。
「碧さん、起きてる? 入るわよ」 ドアが開き、紅がいつものように朝の笑顔をたたえて入ってくる。黒いメイド服に身を包み、トレイの上には淹れたての紅茶とティーポット――いつも見慣れた、あの朝の光景だ。だけど、昨日までの出来事を思い返すと、これはあり得ないはずだった。碧の頭は混乱するが、紅はまるで何もおかしくないかのように微笑んでいる。
「おはよう、碧さん。もう朝よ。ほら、起きなくちゃ」
 紅がカーテンを開け放すと、黄金色の光が一気に部屋を満たした。外には青い空と白い雲、そして穏やかな海らしき風景が見える。碧は眩しさに目を細めつつ、固唾をのんで紅を見上げた。
「紅……さん……?」
 かすれた声で名を呼ぶと、紅は笑顔のままベッド脇に腰掛ける。髪を撫でる仕草も何もかも、いつもの紅そのもの。  
 碧は胸の奥がぐっと熱くなり、衝動のまま彼女にしがみついた。まるで夢のように温かく柔らかい、確かな体温。ほんの少しの抵抗のあと、紅は戸惑いながらもそっと背中をさすってくれる。
「大丈夫よ、碧さん。怖い夢でも見たの?」
 その問いに、碧はどきりとして我に返って腕を緩めた。昨夜――あるいは何夜も前かもしれない――死の淵で見た悪夢を思い出そうとするが、頭の中は白く霞んでいる。
「夢を……見ていました。とても、怖くて……悲しい夢……」
 紅は子供をあやすように碧の髪を撫で、「もう大丈夫」と優しく囁く。その声を聞くだけで、碧の不安がすうっと溶けていくようだ。  
 碧は紅の両手をとり、「紅さん……私……」と何か言いかけるが、言葉にならない。愛してるのか、ごめんなさいなのか、どれも足りない気がする。  
 紅は首をかしげ、「はいはい、仕方ない子ね」と笑って碧の手を引いた。
「さ、朝食にしましょう。お腹が空いてるでしょう?」
 そう言われればたしかに、腹の虫が小さく鳴いている。死んだはずの体が、生者のように正常に動いている――碧は不可解な感覚に震えつつも、紅が差し出す手を思い切り握り返した。  
 ベッドから降り立つと、足元はしっかりしている。ふらつくこともなく、長い廊下へ歩き出す。扉の向こうには金色の日差しが満ちていて、空気はこんなにも澄んでいる。まるで何も悪夢などなかったかのように。
「碧さん?」
 ふと背後から呼びかけられ、碧は「なんでもないの」と微笑んだ。そのまま紅の手を取り、先へ進む。廊下の床板は艶やかで、足音がやわらかく響く。その音が心地よく耳に残るが、どこか現実感が希薄な気がしてならない。
 ――そのとき、窓の外からカラスの鳴き声が二度、カァ、カァと響いた。碧は足を止め、振り返って空を仰ぐ。青一色の空を一羽の黒い鳥が旋回している。前に見たあの鳥だろうか。しかし、碧が瞬きをした次の瞬間には、鳥の姿はかき消されていた。耳にはもう、潮騒しか聞こえない。
「碧さん?」
 紅がまた不思議そうに首を傾げる。碧は「ごめんなさい……」と笑い、小さく首を振る。何かが確かに消えていった感触が胸にある。
「行きましょう、紅さん。……お腹が、空いてるんです」
 紅は「ふふ」と笑い、碧の手を引く。歩き出す足取りは、なぜだか浮き立つほど軽く、碧はあたたかい光のなかを駆けだしたい衝動に駆られる。けれど、その光は少しだけ眩しすぎる。まるで太陽が地上に降りてきたかのように、廊下全体が白金色に溶け込んでいくようだ。碧は歩きながら、ほんの一瞬、視界の端に不自然なゆがみを感じた。壁が揺らぐ? 床がやけに光を帯びている? けれど紅の手の温かさが心を落ち着かせ、疑問は消えていく。
(私たち……生きているの? それとも……)
 言葉にしようとするたびに、喉がふっと乾くような感覚が襲う。しかし、今はただ紅と一緒にいる幸せを手放すわけにはいかない。  
 廊下を曲がった先、食堂に入ると、テーブルクロスが白く輝き、まるで新しい朝を祝っているかのようだ。紅はいそいそと淹れたての紅茶を注ぎ、口当たりのいいスープやパンを勧めてくれる。それは日常の何でもない朝食――なのに、どこかこの世のものではないほど眩しく美しかった。
「食べましょう、碧さん。冷めないうちに」
「……はい」
 碧は頷いて席につく。窓の外では穏やかな海面が太陽をきらきらと反射している。いや、よく見ると波はまったく動いていないようにも思える……が、それも「気のせい」と心が告げた。これが現実か幻想か、そんな問いはどうでもいい。碧は無性に胸が満たされるのを感じ、微笑んだ。そして紅の向かいに座り、おしゃべりを続けながらスープをすする。  

――世界はこんなにも優しく、こんなにも穏やかだ。  
 いつかこの時間が途切れるかもしれないと考えるたびに、碧は胸が締めつけられる。でも紅は笑顔で言うだろう。「大丈夫よ、怖いことなんて何もないわ」と。だから碧も、ひとまずそれを信じることにした。こうして二人は、まるで生前の日常を繰り返すように、朝の光のなかを生き生きと動いている。観葉植物の葉先に朝露が光り、廊下にかかる絵画が柔らかな陰影を纏う。カラスの影はどこにも見当たらない。そして、食堂の時計が時を告げる――が、なぜか短針も長針もほとんど動いていないように見えた。それでも静かに刻むコチコチという音だけが響き、日々はもう一度、最初からやり直されているかのようだ。  
 その事実に気づきもしないかのように、紅が「ほら、パンが焼けたわよ」とキッチンから声をかけ、碧が「ありがとう」と笑顔で応じる。  
 陽光が鮮やかすぎるほど射し込む窓辺には、微かな潮の香りが漂い、それを二人は幸せそうに吸い込む。いつからこの場所にいるのか、いつまでこの場所で過ごすのか――誰も知らないし、もう気にすることもないだろう。
 そのとき、庭の井戸の方角から囁き声のような風が通り抜けた。「ああ、なんて可愛らしいの……」――それは夜の悪夢で聞いたはずの声の残響かもしれない。 けれど二人は顔を見合わせてにっこりと笑い、またいつものように過ごし始めるのだった。まるでこの幸せが、永遠に続くかのように――。 

​​

■考察(と呼ぶには妄想が多い)パート

# 歌詞と映像に宿る象徴性


この物語を彩る歌詞や映像には、多くの象徴と暗喩が散りばめられています。まず印象的なのは銀のスプーンの存在です。スプーンは本来、食事を与える道具であり、愛情や養育のシンボルとも言えます。しかしここでのスプーンは、紅が碧に飲ませる毒を量る器具であり、甘い「おまじない」を装って彼女を支配する手段です。一匙という些細な分量の中に秘められた恐ろしい効力――それは「塵箱から聞こえる悲鳴」や「提灯に蠢く百足」といった怪異を生み出し、碧の現実認識すら歪めました。割ってしまったグラスを「なかったこと」にするための一匙は、一見すると過ちを帳消しにする魔法のようですが、実際には更なる悲劇への扉を開く鍵でした。銀色に輝くスプーンは、裏切りの象徴として不気味な輝きを放ち、無垢な碧に差し出される毒杯となったのです。

次に「おまじない」という言葉の象徴性にも注目すべきでしょう。本来「おまじない」とは子供をあやすような優しい呪文や、傷に息を吹きかけるような他愛ない祈りを指します。しかしこの曲中で囁かれる「おまじない」は、優しさを装った欺瞞です。「怖がらなくていいのよ、これはおまじないだから」とでも言うように、紅、またはお邸の何者かは碧に毒薬を飲ませます。その結果引き起こされる痺れや幻覚は本来「中毒症状」であるにもかかわらず、その者の手にかかればまるで碧自身の不安や疲労が生み出した症状であるかのように扱われ、「おまじないで楽になれるわ」と誘導されてしまうのです。つまり「おまじない」という言葉は、現実を覆い隠す甘美なヴェールとして機能しています。それは記憶を改竄し、出来事を無かったことにする暗黒の呪文でもあります。碧は「なかったことにしないで」と心の中で幾度も叫びます。それはすなわち、甘い言葉に飲み込まれたくない、真実を闇に葬らないでほしいという必死の抵抗でした。おまじないとは本来前向きな祈りのはずが、この物語では毒と隠蔽のメタファーに反転しているのです。

碧の髪の変化もまた重要な暗示を含んでいます。碧という名の通り、彼女の髪は初め澄んだ碧色をしていました。その髪は紅による介抱の下、次第に艶を失い、色褪せていったことでしょう。映像中では、物語の進行につれて碧の髪色が徐々に黒っぽく変化していく描写があります。これは彼女の生命力が毒に蝕まれ、魂が抜け落ちていく様を象徴しているかのようです。かつて輝いていた碧色は、命の象徴でした。しかしそれが失われ黒みがかる様は、彼女が半ばこの世ならぬ存在、すなわち絵の中の幽鬼へと変わりつつあることを示唆しています。最後には碧の髪はほとんど漆黒となり、まるで紅のために誂えられた人形のように見えました。それは同時に、碧という個人の存在が希薄になり、“無かったこと”にされかけていることを表しているのでしょう。髪の変化は、碧の運命が刻一刻と暗転していく視覚的な暗喩であり、観る者に静かな戦慄を与えます。

そして額縁に収められたメイドたちの存在。これはこの物語の背徳と悲劇を凝縮した強烈なシンボルです。額縁の中の少女たちは皆メイド服に身を包み、美しく飾られているものの、その目からは光をうかがうことはできません。彼女らは紅、またはお邸の何者かによって愛でられ、そして殺められた過去の犠牲者たちでしょう。彼女らを永遠に自分のものとして留め置くため、肖像画という形で「保存」しているのです。絵の中で微笑む少女もいれば、涙を流したまま硬直した表情の者もいるかもしれません。それらが「みんなが見下ろしていた」と描写されるとき、碧は自分もまたその一部になりかけていることを悟ります。額縁=フレームは、人生を切り取られ物言わぬ美術品と化した彼女たちの境遇を示します。言い換えれば、命と自由を奪われ、「なかったこと」にされた少女たちの末路そのものです。額縁に収められるとは、存在を鑞人形のように固定され、時の流れから切り離されること。それは愛玩人形たちとの「永遠」を意味したのかもしれませんが、額の中から見下ろす彼女らの視線には、次の犠牲者への無言の警告と哀れみが宿っているようにも感じられます。

# 甘美なるおまじないと隠された毒


歌詞に散見される描写――例えば「舌が回らない」「歩けやしない」「手も握れない」といった肉体の不自由や、「手脚の痺れ」といった症状――は、明らかに中毒症状を思わせます。穏やかな睡眠薬にしては激しすぎ、魔法にしては生々しすぎるその症状は、現実の毒物によるものと解釈するのが自然でしょう。では紅が碧に与えていた“一匙のおまじない”とは何だったのか。考察すると、それは古くから人々に「緩やかな殺意」をもって用いられてきた幾つかの毒が思い浮かびます。
一つはヒ素(砒素)です。ヒ素は無味無臭で少量ずつ盛れば中毒死を病死に見せかけることができるため、清の光緒帝の殺害や、フランス語圏でpoudre de succession(遺産相続のための殺人に利用されることが多かったので、相続人の粉という異名があった)として歴史上幾度も用いられてきました。ヒ素中毒は初期には消化器系の激しい不調をもたらしますが、慢性的に摂取した場合、手足の痺れや脱力、言語障害など神経症状が現れることがあります。歌詞にある「舌が回らない」「手も握れない」という状態は、まさにヒ素の慢性中毒による周辺神経障害を想起させます。またヒ素は毛髪や爪に蓄積しやすく、体内に取り込まれた後も長く残留します。碧の髪が色褪せ変化していったのは、ヒ素が体に蓄積し生命力を奪っていった結果とも考えられるでしょう。さらに興味深いのは、ヒ素が生み出す緑色の毒です。19世紀、パリやウィーンではヒ素化合物から作られた鮮やかな緑色の顔料(パリ緑・シェーレの緑)が流行しましたが、その壁紙から発せられるヒ素で中毒死する事件が相次ぎました。碧という名は緑青や翡翠のごとき緑がかった青を意味しますが、これは偶然にもヒ素系顔料の妖艶な輝きを思わせます。碧の運命がヒ素の緑に象徴されるとすれば、彼女は美しい毒に取り憑かれた存在と言えるかもしれません。
もう一つ考えられるのは水銀です。水銀そのものは銀白色の液体金属ですが、歴史上「不老不死の妙薬」として珍重された経緯があります。古代中国の秦の始皇帝や近世欧州の錬金術師たちは、水銀やその化合物を霊薬として口にしましたが、皮肉にもそれにより中毒死してしまいました。水銀中毒は神経系を冒し、手足の震えや言語障害、視覚・聴覚の異常を引き起こします。碧が見た幻覚や音(誰もいないはずの場所からの声、視界に入る異形の虫)は、水銀中毒による感覚異常とも捉えられます。また、水銀化合物には朱色のものがあります。たとえば硫化水銀である辰砂(しんしゃ)は美しい紅色の顔料(朱色)として古来より絵具や化粧に用いられました。紅という名は文字通り赤色を指しますが、それはこの辰砂の妖しい赤を彷彿とさせます。辰砂は仙薬として服用された歴史もありましたが、実際には猛毒でした。紅の髪の色はまさに辰砂のように艶やかで、碧に与えられた薬もまた赤みを帯びた液体だったかもしれません。もし碧に与えられていたのが水銀を含むエリクサー(霊薬)であったなら、「おまじない」と称して不老不死を謳った思いやりが、逆に碧の命を蝕む欺瞞の霊薬だったことになります。ヒ素にせよ水銀にせよ、美しく魅惑的な色彩の裏に死を忍ばせた毒である点で共通しています。紅と碧という対照的な名前も、そうした毒物の色彩的イメージと響き合い、物語に科学的・歴史的な深みを与えているのです。

# 紅と碧――揺らめく関係性と結末


紅と碧、この二人の関係は物語の進行とともに妖しく変容していきます。当初、碧にとって紅は優しいお姉さんのような存在でした。暖かな寝台で目覚めたとき、紅が差し出した微笑みは天使のように見えたでしょう。月光のもと紅は碧の髪を梳かし(紅い髪のあなたの手, 梳かした月の影)、「ああ、なんて可愛らしいの」と紅は満足げに碧を褒めそやしました。碧はその言葉に頬を染め、もっと紅に気に入られたいとすら思ったかもしれません。こうして二人はまるで姉妹か親子のように寄り添う間柄となり、碧は紅に深い信頼と淡い憧れを抱くようになります。
二次創作の小説本文においては毒を飲ませたのは主人…という描き方をしましたが、実際のところ歌詞から毒を与えたのは紅であるという受容も可能です。その世界観においては優しさは表層のことであり、やがて碧は紅の真意に気付き始めます。紅の愛情は限りなく甘美である一方で、どこか歪んでいました。彼女は碧を 「自分だけのもの」にしようとしていたものと思います。愛ゆえに傷つけ、愛ゆえに閉じ込める――紅の愛は狂気と表裏一体でした。碧が日増しに衰弱し外界への興味を失っていく様を、紅はまるで幼子をあやすように「いい子ね、そのままで」と喜んでいたことでしょう。碧が怯えた様子を見せると、「怖くないわ、大丈夫。私がついているもの」と囁きつつ、更に一匙のおまじないを与えるのです。その掌中で転がされる感覚に、碧はいつしか恋にも似た執着と反発心を同時に募らせていきます。紅に愛されたい。しかしこのままでは自分が自分でなくなってしまう――碧の中で相反する感情が燃えさかりました。

決定的な転機は、碧が秘密の部屋で真実を目撃した瞬間に訪れました。額縁の少女たちの冷たい眼差しに晒されて、碧の中の幻想は音を立てて崩れ落ちます。その冷たさに触れ、憧れのように仰いでいた紅の微笑みが恐ろしい仮面に思え、「この人は私を愛してなどいない、私を殺そうとしている」と悟ったのです。その瞬間から、碧の想いは愛から憎しみに反転しました。同時に、紅に対する哀れみの情も芽生えます。なぜ紅はこんな狂気に囚われてしまったのか? もしかすると彼女自身もかつて誰かの犠牲になったのではないか――碧は紅の哀しげな横顔を思い出し、胸が締め付けられるのを感じました。愛と憎悪、共感と恐怖が渦巻く中、碧は紅と対決する覚悟を固めます。「もう後には戻れないわ」という歌詞では、秘密の部屋へ行ったことで二人の関係さえも元の微笑ましい間柄には戻れなくなったことを示唆しているーーそんなふうには読み取れないでしょうか。クライマックスでは、碧と紅の運命が激しくせめぎ合います。碧が真実を知ったことに気付いた紅は、狼狽したかもしれません。あるいは静かに微笑み、「全部忘れてしまいましょう?」と最後の猛毒を碧に差し出したかもしれません。碧は震える手で銀のスプーンを握り締め、紅に立ち向かいます。歌詞の終盤、「よかった起きて来ないね 烏が死んだわ 振り向いても独りきり あなたが居たはずなのに」とあるのは、碧が紅を"おまじないにかけた"、と解釈してもよいと思います。碧は紅の飲み物に自ら“おまじない”を混ぜ、紅は深い眠りについて二度と目覚めなかったーー常に紅と行動を共にしていた烏もまた、その瞬間息絶えた。烏は紅の魂の化身であったのかもしれません。紅が倒れた後、碧が振り返るとそこには誰もいませんでした。もはや紅はいない——しかし碧は孤独ではなく、自分の中に紅の存在を強烈に感じ取ります。痺れた指先が指し示した銀の匙を見つめながら、碧は歌詞にあるように「今、逢いにゆくわ」と呟きます。これは、紅の後を追って自らも死のうと決意したようにも聞こえますし、紅の魂に語りかけているようにも感じられます。碧は紅の頬に残った涙を拭い、その冷たい額にそっと口付けしたかもしれません。そして己も同じ毒を口に含み、静かに瞼を閉じたのです。「ひと匙のおまじないを」と響くフレーズは、碧が自らに毒杯をあおった場面と取れます。

物語の結末は曖昧で、幻想的な余韻を残します。ラストの歌詞「いつもの様にあなたがわたしを起こす ああ、なんて可愛らしいの」は、朝が巡り紅が碧を起こしに来た日常を繰り返しているように聞こえます。しかしそれは現実の描写というより、永遠に抜け出せない呪いのループや死後の夢幻を示唆しているのでしょう。もし碧が紅と運命を共にし命を落としたのだとすれば、これは冥界で再び逢い交わす二人の姿とも取れます。紅は優しく「おはよう」と囁き、碧は憧れに満ちた瞳で紅を見上げる――そんな生前と同じ光景が、死後の世界でも繰り返されるのです。「ああ、なんて可愛らしいの」という台詞が再び響く時、もはやそれを口にしているのが紅なのか碧なのかすら判然としません。二人の関係は愛憎もろとも融け合い、主従や加害・被害といった境界さえ曖昧になって、ただ狂おしい魂の結び付きだけが残りました。それは悲劇であると同時に、一種の救いにも感じられます。孤独だった紅の魂は碧と一つになり、碧もまた愛する人と離れずに済むのですから。

最後に残るのは、静かな海辺の朝の情景です。潮騒の音だけが聞こえる浜辺に、あの古い邸宅はひっそりと佇んでいます。生者の気配はなく、ただ割れた窓ガラス越しに一羽の烏の死骸が見えるばかり…。しかしその屋敷の二階の一室では、今日も額縁の中の少女たちが微笑み、そして新たな二枚の肖像画――碧の肖像が、紅のものと思しき肖像と並んで飾られています。二つの肖像の中の少女たちはまるで会話を交わすように互いを見つめ合い、その口元には穏やかな微笑すら浮かんでいるようです。紅と碧は、生と死、現実と幻を超えて永遠に繋がったのかもしれません。悲しくも美しい匙ノ咒の物語は、こうして深い余韻を残し幕を閉じるのです

© 2024 by Tt★ in Tokyo. Powered and secured by Wix

bottom of page