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Project no.22

ボカロさんぽ

Sohbana/正信士 を仏教的な文脈から無宗教なボカロリスナーがガイドする副読本

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025冬ボカコレ『正信士』という本当にいい曲があるわけですが

「受験応援ソング……なのにお経?」「仏教の"正しさ"って何?」...という方が世の中にいる気がしたので

そんな方のために(たぶんロジカルに)新たな視点を提供できたらと脱線しながら書きまとめました

仏教的文脈を踏まえて『正信士』の歌詞の世界をのぞいていきましょう

​誤解があったときにアップデートしたいので、なにかあればX等でコメント下さい

目次:

## 1. 仏教の大枠と歴史
## 2. 『般若心経』の思想的バックグラウンド
## 3. 釈迦の時代の考え方と仏教のレイヤー構造
## 4. 「方便」という概念を活用し、大乗仏教がどのように教義をハックしたか
## 5. 釈迦と菩薩の関係性の変化
## 6. 大乗仏教の視点から見た「正しく生きろ」とは何か?
## 7. 歌詞の矛盾と「正しく生きることの誤り」
## 8. 受験生へのメッセージ:自分の正しさを見つけよう

​がんばれ受験生!

ボカロ「正信士」と仏教:歌詞に秘められたメッセージを読み解く

ボカロ楽曲『正信士』(ただしんし)は、一見すると「正しく生きろ」というメッセージを繰り返す受験応援ソングですが、その背景には仏教的なテーマが深く絡んでいます。仏教の歴史や思想を知ると、この曲に込められた皮肉やメッセージがより鮮明に浮かび上がってきます。「正しさ」とは何か? それは時代や文脈でどう変わるのか? 仏教の教えをひもときながら、『正信士』の歌詞を読み解いてみましょう。

## 1. 仏教の大枠と歴史

仏教のはじまりと広がり:

紀元前5世紀ごろ、インドでゴータマ・シッダールタ(釈迦)が悟りを開き、「人生は苦である」という洞察から四つの真理(四諦)や八正道といった教えを説きました。彼の教えは弟子たちによってまとめられ、やがてインド各地から南アジアへと伝わっていきます。釈迦が示した「苦しみから解脱する道」は当初シンプルで、出家して修行する人々(比丘・比丘尼)が自らの悟り(涅槃)を目指すことが中心でした。この初期仏教の流れは現在「上座部仏教(南伝仏教)」とも呼ばれ、スリランカや東南アジアに伝わっています。

大乗仏教の誕生:

紀元後1世紀頃になると、仏教は新たな展開を見せます。インドでそれまでの仏教とは異なる理念を掲げる新潮流が興起し、自らを「大乗(マハーヤーナ)仏教」と名乗りました ([大乗仏教|国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ])。*Maha*は「大きい」、*Yāna*は「乗り物」という意味で、「あらゆる人々を乗せて悟りに導く大きな乗り物」という意図です ([大乗仏教と小乗仏教(部派仏教)の違い])。大乗仏教の担い手たちは、既存の保守的な仏教を「小乗(ヒーナヤーナ、小さな乗り物)」と呼んで批判し、自分たちの教えこそより優れた道だと主張しました。この呼称には多少の侮蔑が含まれており、従来の仏教側が自らを「小乗」と認めたわけではありません 。とはいえ、大乗勢力の登場によって仏教思想は大きく多様化し、「出家者が自分の悟りを得る」こと以上に「在家を含むすべての人々を救済する」ことが重視されるようになります。

「正しさ」のレイヤー構造の変化:

 この歴史の中で、“何が正しい教えか”“正しい生き方とは何か”の基準も変化しました。釈迦の直接の教えを守ることが仏教徒にとっての正道でしたが、大乗仏教は「釈迦の教えそのものを再解釈し、新しい視点を加える」動きを見せました。後述するように、大乗は方便や新たな経典を通じて、従来の教えのレイヤー(層)を増やし、「今まではこう考えられていたけれど、実は更に高い次元ではこうなんだ」という形で教義をアップデートしていったのです。まるでソフトウェアにパッチを当てるように仏教を“ハック”して、新しい「正しさ」の地平を開こうとしたとも言えるでしょう。例えば、大乗仏教は阿羅漢(自身の悟りを完成させた聖者)よりも菩薩(他者を救うために悟りを目指す存在)を理想に掲げ、菩薩行こそが真に「正しい」仏道であるとしました。このように歴史を通じて、「正しさ」の基準は一枚岩ではなく、重層的に発展してきたのです。

## 2. 『般若心経』の思想的バックグラウンド

仏教の奥深い思想を象徴する経典の一つに『般若心経』があります。わずか262字の短い経ですが、その内容は仏教思想を凝縮しており、大乗仏教のキーワードである「空(くう)」を説いています。『正信士』の歌詞中にもこの般若心経の一節が取り入れられており(「乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無…」 ([正信士 - 初音ミク Wiki〖3/1更新〗 - atwiki(アットウィキ)])、曲のテーマ理解に重要なヒントを与えています。

「無四諦」とは何か?:

般若心経の中で特に衝撃的なのが「無苦集滅道」という一文です。これは釈迦が悟りの直後に説いた四つの真理、すなわち「四諦(したい)=苦諦・集諦・滅諦・道諦」が「無い(存在しない)」と説かれている部分です ([Heart Sutra and Emptiness (Part 5 of 5) – Everyday Zen Foundation])。四諦とは本来、(1)この世は苦で満ちている(苦諦)、(2)苦には原因がある(集諦)、(3)その原因を滅すれば苦しみは消える(滅諦)、(4)苦の原因を滅するための八正道という実践法がある(道諦)──という仏教の根幹教理です。それを般若心経では「苦も集も滅も道も無し」とバッサリ否定するわけですから、初めてこれを聞いた当時の人々はさぞ驚いたことでしょう。実際、この経典はそれまでの仏教の教えをひっくり返して新たな視座を示すものとして受け取られました。では、この「無四諦」は仏教の真理そのものを否定してしまう、過激な逆張りなのでしょうか? 実はそうではありません。般若心経が伝えたいのは「四諦ですら究極的には空である」ということです。空(くう)とは、大乗仏教で説かれる真理で、「あらゆる現象には固定不変の実体がない」という意味合いです。般若心経は「色即是空、空即是色」という有名な言葉でも知られますが、「五蘊(人を構成する要素)は空である」ことに続けて、「苦・集・滅・道も空である(=実体がない)」と明かすのです。これは「四諦なんてウソだ!」と言っているのではなく、「四諦という教えも究極的には概念に過ぎず、それ自体が絶対的真理として存在するわけではない」という悟りの境地を示しています。

実際、香港のランタオ島にある「心経簡林(Wisdom Path)」という般若心経の碑列 https://www.tourism.gov.hk/wisdompath/en/index.html では、経文が刻まれた38本の木柱のうち山頂に立つ1本だけが敢えて空白にされています。それは「最高の真理である空(Sunyata)を象徴するため」であり、何も刻まれていないこと自体に意味があるのです。この空白の柱は、「形ある教えさえも空であり、そこから解放されること」を目に見える形で表現しています。四諦を含めすべてを空と見る般若心経の思想は、大乗仏教に大きな影響を与え、「執着すべき絶対的な正しさなどない」というメッセージを仏教にもたらしました。

「空」の考え方が大乗仏教に与えた影響:

空の思想は龍樹(ナーガールジュナ)によって体系化され、大乗仏教の中心哲学となりました。空を理解すると、「物事に固有の実体や不変の本質がない」と知るため、我々は諸概念に対する執着や思い込みから自由になれます 。例えば「これが絶対の真理だ」「このルールこそが正しい」という凝り固まった観念も、空の前では柔軟性を帯びます。大乗仏教は、空の智慧によって古い教えを相対化し、新たな価値を見出しました。「以前は阿羅漢になることが最善とされたけれど、それもひとつの方便に過ぎず、本当はすべての人が菩薩となり仏を目指せる」という具合にです。これは後の節で述べる菩薩観の強化にもつながります。要するに、空の思想は「正しさ」の物差しを一段上の次元に引き上げ、仏教のレイヤー構造を再編成する理論的支柱になったのです。

## 3. 釈迦の時代の考え方と仏教のレイヤー構造

釈迦は「正しさ」をどう考えていたか:

紀元前5世紀のインドでは、バラモン教(ヒンドゥー教の前身)の司祭たちが唱える祭式や、様々な苦行僧たちの思想が入り乱れ、「何が真理で何が正しい生き方か」に諸説ありました。そんな中で生まれたゴータマ・シッダールタは、まずそれら極端な実践に振り回されます。宮殿で快楽に満ちた生活を送ったかと思えば、出家後は骨と皮になるまで苦行に没頭しました。しかしどちらも悟りには至らず、結局彼は中道と呼ぶ折衷の立場に至ります。快楽にも苦行にも偏らない中くらいの道」こそが心の平安と智慧を生む、と体得したのです。ここから導かれたのが先述の四諦と八正道でした。「正しく生きる」と言えば、八正道の中の「正見」「正語」「正業」…といった項目が思い浮かびますが、釈迦の意図する「正しさ(正見=ありのままを見ること)」は、単なる道徳的遵守や教条主義とは異なります。彼は実践によって苦を滅することを重視し、「何が有効に苦しみを減らすか」という観点で物事の正否を判断しました。

その姿勢は彼の言動によく表れています。例えば釈迦は弟子たちや周囲の人々に対し、「自分(釈迦)の教えだからといって鵜呑みにするな。噂や伝統、権威だけで信じてはいけない ([Kalama Sutta: The Buddha's Charter of Free Inquiry])。自分でよく確かめ、もしそれが善い行いをもたらし、叡智ある人々にも称賛され、幸せにつながると分かったなら受け入れなさい。逆に、どんな由緒正しい教えでも、それが悪を生み不幸につながると知ったなら捨てなさい と説きました。これはカラマ経と呼ばれる経典の有名な一節で、釈迦の教えが盲信や独断から自由であることを示すものです。権威や伝聞よりも、自分で確かめた“結果”を重視する姿勢は、非常に合理的で実践的です。いわば釈迦にとっての「正しさ」とは、苦を減らし幸福に近づける有効性と言い換えてもよいでしょう。

また釈迦は自身の教えさえも相対化するよう促しています。ある例え話で彼は、「正しい教え(法)は向こう岸に渡るための筏(いかだ)のようなものだ」と説きました。川を渡り終えたなら、その筏を頭に担いで歩き回る必要はないでしょう──つまり教えそのものに執着してはいけないと示したのです ([What is skillful means (upaya)? - Buddhism for Beginners])。これは「たとえ仏陀の教えであっても、それ自体が目的ではなく、悟りに至るための手段なのだ」という大胆な示唆です。釈迦が悟った後すぐに弟子たちに教えを説かなかった(言葉で伝えることの限界を感じた)という逸話も残っていますが、こうした姿勢からもうかがえるように、彼は真理の生きた体得を重んじ、言葉や形式としての「正しさ」には柔軟でした。

このように釈迦の時代における「正しさ」は、後世のように教義体系が複雑にレイヤー化されておらず、根本的にはシンプルな「苦を滅する道に適っているかどうか」でした。しかし皮肉なことに、釈迦入滅後の数百年で経典や戒律が整備されると、仏教教団内でも「この解釈が正しい」「あの戒律は厳守すべきだ」といった意見の違いが生まれ、部派仏教と呼ばれる複数の学派・宗派に分かれていきます。歴史が進むにつれ、仏教の「正しさ」は一枚岩から多層的構造へと移行していったと言えるでしょう。そのピークが、まさに大乗仏教の登場だったのです。

## 4. 「方便」という概念を活用し、大乗仏教は仏教をどのようにハックしたか

大乗仏教のキーワードの一つに「方便(ほうべん)」があります。サンスクリットではウパーヤ(upāya)といい、直訳すれば「巧みな手段」ですが、要するに教えを伝えるための便宜的な方法のことです 。仏教においては「仏や菩薩が衆生を導くために、その時々の相手に合わせて最適な教え方を選ぶ」ことを指し、これを積極的に肯定したのが大乗仏教でした。

釈迦も使った柔軟な伝え方:

実は方便の考え方自体、釈迦の頃から萌芽がありました。釈迦は相手の資質や状況に応じて説法の内容や方法を変えたとされます。難しい真理を直接説くのではなく、たとえ話を使ったり段階的に教えを深めたりしました。その典型例が先述の筏のたとえや毒矢のたとえ(無駄な形而上学より今の苦をどうにかしろ、という話)などです。また説法の言語も、当時の知識人が使っていたサンスクリット語ではなく民衆の言葉(プラークリット)で行ったとも言われ、相手に通じやすい方法を徹底したようです。こうした釈迦の姿勢は、後に大乗の経典作者たちにとって理想的なお手本となりました。

燃える家のたとえ(三車火宅の譬え):

大乗仏教を代表する経典『法華経』には、「三車火宅(さんしゃかたく)の譬(たと)え」、通称「燃える家のたとえ」と呼ばれる有名なエピソードがあります。それは次のような物語です。

ある大富豪の家にたくさんの子供たちが遊んでいた。ところが家に火がまわり、子供たちは炎に気づかず逃げようとしない。父親(富豪)は子供たちを何とか助け出そうと、「外に素晴らしいおもちゃの車(牛車・鹿車・山羊車)があるぞ!」と嘘をついて誘い出します。子供たちが喜んで飛び出した後、父親はその嘘をわびつつ、実際にはそれよりも立派な白い牛車(最高の乗り物)を与えて皆を救ったのでした。

この譬え話が示すのは、「仏(父親)は衆生を救うためにあえて方便の嘘を用いることがある」という教えです。当初子供たちに与えると約束した三種類の車(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗)は仏が用意した誘い文句に過ぎず、実際には最高の乗り物(※仏乗=一乗)だけが真実だった、というのが法華経の結論です。この物語を通じて、法華経では「釈迦が今まで説いてきた色々な教えも、人々を導くための方便だった。本当は一つの真実(成仏への道)しかない」という大胆なメッセージが語られます。ここから大乗仏教は、「釈迦仏も方便を使ったのだから、我々が新たな教えを付け加えても問題ない」という論理的裏付けを得たと言えるでしょう。

大乗仏教は釈迦の教えをこうアップデートした:

方便の思想に支えられた大乗仏教は、既存の教義を大胆に再解釈・再編成しました。彼らは「今までの教えは時と場合に応じた仮の説明であり、もっと奥深い真理がある」と主張し、新たな経典や理論を次々と生み出します。般若経典群における「空」の教えもその一つでしたし、如来蔵思想(すべての衆生に仏性が宿る)なども方便を用いて説かれます。これらは一見するとそれまでの仏教と矛盾したり、教義を覆すようにも思えました。しかし大乗仏教徒たちは「それは矛盾ではなく、より高度な視点から見た真実なのだ」と説明しました。いわば「小学校で習う理科と大学で習う物理学が異なっていても、どちらも真理へのプロセスである」かのように、初期教団の教え(小乗)は初等教育、大乗の教えは高等教育だ、と位置付けたのです。

こうした方便の論理によって、大乗仏教は自由に新しいメッセージを展開できる余地を得ました。場合によっては奇抜だったり既成の教えに反するようなことさえ、最終的な救いに繋がるなら容認されたのです。たとえば禅宗の公案や祖師の型破りな行動(弟子を棒で叩く、禅僧が仏像を燃やして寒さをしのぐ逸話等)は一見「正しくない」振る舞いですが、弟子を悟りに導くための方便として肯定されました。このようにして仏教の「正しさ」は、多層的かつ融通無碍なものへとハック(再構築)されていったのです。

## 5. 釈迦と菩薩の関係性の変化

初期仏教における「菩薩」とは:

「菩薩(ぼさつ)」という言葉は、大乗仏教では「悟りを求める人」全般を指しますが、もともとはサンスクリット語のボーディサットヴァ(bodhisattva)の音写で、初期仏教では主に釈迦自身の前世を意味していました。お釈迦様が悟りを開く前、長い修行の過程にあった頃の姿、それが菩薩です。したがって当時、一般の修行者が「私は菩薩です」と名乗ることはありませんでした。彼らの目標はあくまで阿羅漢(あらかん)という悟りを得た聖者になることであり、菩薩とは釈迦の過去世か、ごく限られた次の仏候補(未来仏。例えば弥勒菩薩)のことだったのです。

大乗仏教で菩薩が主役に:

ところが大乗仏教は、この菩薩の概念を大きく拡張しました。「誰もが仏になれる潜在性(仏性)を持つのだから、出家・在家を問わずすべての人が悟りを目指すべきだ。悟りを目指す人は皆“菩薩”と呼べる」という考え方です。これにより、菩薩は釈迦だけのものではなく、仏教徒全体の理想的人格として位置づけられました。大乗経典には多くの菩薩が登場します。観音菩薩(観世音菩薩、アヴァローキテーシュヴァラ)や文殊菩薩(マーンジュシュリー)などはその代表で、救いを求める人々に手を差し伸べる存在として広く信仰の対象ともなっています ([Bodhisattva - Wikipedia])。菩薩たちは仏陀に次ぐ存在ではなく、むしろ積極的にこの世に留まって衆生を救済するヒーローのような位置づけです。

 例えば千手観音菩薩(千手観世音)は、千本の手であらゆる方向に救いの手を差し伸べる慈悲の象徴です。大乗仏教の菩薩たちはこの観音菩薩のように、大いなるコンパッション(慈悲)と智慧を持ち合わせ、衆生救済のためなら自らの悟りの完成すら後回しにするとされます。大乗仏教において「正しく生きる」とは、まさにこうした菩薩の生き方──自己の悟りと他者救済を両立させ、智慧(空の理解)と慈悲の実践に努めること──だと考えられました。釈迦一人が特別な存在だった初期仏教に対し、大乗仏教は菩薩という多数のヒーローを擁立し、人々に「あなたも菩薩を目指せ」と呼びかけたのです。

この変化によって、仏教徒の理想像は一変しました。釈迦や阿羅漢のように自分の悟りを完成させるだけでなく、他者のために献身する生き方が讃えられるようになったのです。例えば『維摩経』では在家の菩薩である維摩居士が出家の弟子たちを論破する場面が描かれ、菩薩の優位性を示します。また法華経では、釈迦の弟子たち(舎利弗など)も最終的には菩薩の道を歩み未来に仏となると予言されます。こうした物語は、「既存の聖者(声聞や縁覚)も実は仏の方便による教化の産物で、真に正しい道は菩薩行にある」という大乗の主張を裏付けました。釈迦と菩薩の関係は師弟から同志へ、そしてあらゆる人が菩薩になり得るという開かれたものへと変化したのです。

## 6. 大乗仏教の視点から見た「正しく生きろ」とは何か?

以上の仏教史・思想の流れを踏まえると、「正しく生きる」という言葉も文脈によって大きく意味が変わり得ることがわかります。大乗仏教の視点に立てば、単にルールを守りお行儀よく生きること=正しさではありません。それどころか、ルールを厳密に守るあまり本末転倒な結果を招く危険すら指摘されています ([ダイバダッタの話 | 臨済宗大本山 円覚寺] 。大乗仏教が理想とする「正しさ」とは、慈悲と智慧に裏打ちされた柔軟な実践、すなわち衆生を救うためなら場合によっては常識的な正しさから逸脱することさえ厭わない勇気なのです。

「正しさ」を貫いた結果のマイナス例:

仏教史には「善かれと思ってやったこと」が裏目に出た象徴的な事件があります。それが釈迦の弟子提婆達多(デーヴァダッタ)の叛乱です。提婆達多は釈迦の従兄弟であり、一時期は高弟の一人でしたが、後に釈迦に反発し教団を分裂させようとしました。彼は「もっと厳格に修行すべきだ」という信念から、僧たちに次の五つの厳行を主張したのです

1. 一生森の中で修行すべし(常に林に住め)  
2. 一生托鉢のみ行い、招待された食事は受けるな(常に乞食し、施しの食以外食べるな)  
3. 衣服は拾ったボロ布(糞掃衣)のみを纏い、新しい衣をもらうな  
4. 常に樹の下に座して眠り、家屋に入るな  
5. 肉を一切食べるな  

一見、どれも修行者としては「正しすぎる」ほどに思える戒めです。提婆達多は「これこそが正しい仏道だ」と釈迦に提案しました。しかし釈迦は彼の案をきっぱりと拒否します。釈迦は「それらの行もやりたい者はやればよいが、強制すべきでない」としました。実際、釈迦自身も森にも村にも住み、托鉢も受けた施しも両方行い、布施でもらった衣も着用し、必要なら家にも入り、さらに自分のために殺された肉でなければ食すことも許容していました 。要するに、修行規律に関して釈迦は柔軟で、状況に応じた中道をとっていたのです。

提婆達多はこれに不満を抱き、「自分こそが正統な教団を率いる」と宣言して独立してしまいます。彼に賛同した僧も一部おり、結果として仏教教団は分裂の危機に陥りました。提婆達多はその後、暴走してしまい、釈迦を殺そうと画策するなどの大罪(破和合僧、出仏身血など)を犯し、結局は悲惨な最期を遂げたと伝えられます。この逸話は、「硬直的な正しさの追求」が招く破滅を物語っています。提婆達多にとって“五つの厳行”は彼なりの正しさだったのでしょうが、それに固執した結果、師を裏切り仲間を分断し、自ら地獄に堕ちるという最悪の結末を招いたのです。

「正しく生きる」ためにあえて正しさを破る:

対照的に、大乗仏教では「一見不正に思える行為」であっても究極的な善につながるなら肯定されるケースがあります。有名な例が「船の上の菩薩」の物語です ([Bodhisattva Warriors])。ある経典によれば、500人の乗客を乗せた船に一人の盗賊が乗り込み、皆を殺して財宝を奪おうと企てました。それに気づいた船長がいましたが、彼は実は菩薩の化身でした。菩薩である船長は苦悩します。「盗賊を見過ごせば500人が殺される。それは大惨事だ。一方で私が盗賊を殺せば、殺人の罪を背負うことになる。しかし…」と思案した末、この船長はなんと自ら盗賊を殺してしまうのです!普通に考えれば殺人は五戒にも反する大罪ですが、菩薩の船長は「この男が500人もの殺生という極悪罪を犯せば、彼自身が地獄に堕ち長劫の苦しみを味わうだろう。それを私が一身に罪を引き受けてでも止めてやろう」と完全に利他的な動機で行動しました。結果、500人の命は救われ、盗賊自身も極重の罪業から免れました。菩薩は自ら地獄に落ちる覚悟をしたものの、その崇高な慈悲ゆえに逆に大きな功徳を積んだ…という結末になっています。

この話は極端に思えるかもしれませんが、大乗仏教における倫理観を端的に示しています。つまり、「形式的・表面的な正しさよりも、意図と結果の慈悲・善性こそが重視される」ということです。五戒(不殺生など)は大切ですが、菩薩にとっては全ての衆生を救うことが最優先であり、そのためには戒律の形を一時的に破ることも辞さないという考え方です。これを聞くと「何でもアリになってしまうのでは?」と不安になるかもしれません。確かに方便の思想は誤用されれば危険です。しかし大乗仏教でも無制限に何をしても良いとはされておらず、そこには智慧(空の見地)と慈悲のバランスが求められます。先の船長菩薩の話でも、動機が私利私欲であれば単なる殺人ですが、純粋な利他ゆえに許容されています。

要するに、大乗仏教的な「正しさ」とは硬直的なルール遵守ではなく、状況に応じて最善の慈悲行を選ぶ柔軟な実践なのです。そう考えると、「正しく生きろ」という言葉も単純ではなくなってきます。もし「正しさ」を取り違えれば、提婆達多のように暴走する危険があるし、かといって何でも勝手に破ってよいわけでもない。大乗仏教は我々に、本当の正しさとは何かを常に問い直し、自らの智慧と慈悲に照らして判断せよと求めているのです。

## 7. 歌詞の矛盾と「正しく生きることの誤り」

では、こうした仏教的文脈を踏まえて『正信士』の歌詞を見てみましょう。この曲ではサビで「正しく生きろ」というフレーズが何度も繰り返されます。しかし注意深く聴くと、その周囲には皮肉たっぷりの言葉が散りばめられていることに気づきます。

例えば一番のサビでは、「正しく生きろ、正しく生きろ、正しすぎると正しさで死ぬけど」と歌われます。いきなり「正しく生きろと言っておきながら、正しさに固執しすぎると却ってそれに殺される」という警告が入っているのです。「正しく生きりゃ正しいと限らんけど」とも続き、正しく生きた結果が本当に正しいかはわからないとも歌っています。二番以降でも、「正しさの次に世界は進んだけど、正しい(which you know)は正しいと限らんけど」と、世の中は常に“次の正しさ”へと更新されていくことや、「誰も本当の正しさを知らないけど、それでも正しく生きろと言われる」という矛盾が指摘されます。

極めつけは「正しく生きて私は死んだけど」というフレーズが飛び出します。つまり語り手(あるいは曲中の人物)は正しく生きたにもかかわらず死んでしまった、と告白しているのです。それでもなお「正しく生きろ」と繰り返されるこの構図は、強烈なアイロニーを帯びています。「正しく生きれば救われる」という信念が打ち砕かれているのです。

以上のように、『正信士』の歌詞には「正しさ」に関する自己言及的な矛盾が意図的に盛り込まれています。それはまるで般若心経が四諦を「無」と言い放った時のように、一見すると教条的なスローガン(正しく生きろ)を掲げながら、同時にその絶対性を否定しているのです。曲のタイトル「正信士」自体も意味深長です。「正信」とは文字通り「正しい信仰」ですが、実は仏教では、亡くなった人に対して戒名(法名)を授ける習慣があり浄土真宗では「釋○○(釋は釈迦の弟子であることを示す)」の形が多いですが、一般信者向けの法名として「正信士」という位が存在します。一方で語感としては「ただ信じろ」「正しいと信じる人」とも取れ、画一的な正しさを疑いもなく信じている人への皮肉にも聞こえます。

この曲は受験応援ソングとされていますが、普通の応援ソングなら「頑張って勉強して合格しろ」「正しい努力を続けろ」とエールを送るところでしょう。しかし『正信士』は「正しく生きろ。でもそれで報われるとは限らないし、むしろ危ういかもよ?」と歌うのです。実際、KARENTの楽曲紹介でも「『正しく生きろ』と人は言うけれど、よくある愚直な“正しさ”が本当に正解なのか?考えを巡らせたくなるエレクトロポップです」と説明されています [〖ボーカロイド音楽専門レーベル「KARENT」配信情報〗2月20日(木)~2月26日(水)に7作品の配信をスタート! | クリプトン・フューチャー・メディア株式会社のプレスリリース]。まさに、世間で言われる当たり前の「正しさ」を疑えと促しているわけです。

これは仏教的な観点から見ても非常に興味深いテーマです。前節まで見たように、仏教でも表面的な正しさへの執着は危険視され、本質を見極める智慧が求められます。『正信士』はそのメッセージを現代の文脈、特に受験や社会生活の文脈に当てはめ、「与えられた正しさに縛られるな」と訴えているように思えます。歌詞中の語り手は、おそらく「正しく生きた」のに救われなかった経験を持つ人物なのでしょう。それは受験かもしれないし、もっと人生全般かもしれませんが、「言われた通りに頑張ったのに報われなかったじゃないか!」という怨嗟が感じられます。そして皮肉にも「それでも正しく生きろと誰もが言う…」と繰り返すのです。この構造自体が、正しさの空しさを体現しています。

## 8. 受験生へのメッセージ:自分の正しさを見つけよう

最後に、『正信士』が受験生やリスナーに伝えたいメッセージについて考えてみましょう。ただ単に「勉強しろ」「サボるな」と説教する曲ではないことは、ここまでの考察で明らかです。この曲はむしろ、「世間が押し付ける正しさに流されるのではなく、自分にとって本当に大切なものは何か、自分なりの“正しさ”を見極めてほしいというエールを送っているのではないでしょうか。

受験生であれば、周囲の大人から「勉強しなさい」「いい大学に行きなさい」というプレッシャーを受けるでしょう。それが「正しい道」だと信じて頑張る人も多いはずです。確かに勉強は大事ですし、努力すること自体は尊いでしょう。しかし、本当にそれだけでいいのか?という問いかけがここにはあります。もしも「正しく生きた」のに結果が伴わなかったとき、人は心が折れてしまうかもしれません。あるいは、正しさに固執するあまり他人を傷つけたり自分自身が苦しくなってしまうかもしれません(まさに仏教で戒律至上主義に陥った提婆達多のように。

だからこそ、『正信士』は一度立ち止まって考えることを提案しているように感じられます。「正しさの次に世界は進んだけど…」という歌詞の通り、世の中の常識や正解はどんどんアップデートされていきます 。今“正しい”と言われていることも、将来から見れば古い考えになるかもしれない。だったら、あまり思い詰めすぎずに柔軟に構えようよ、というわけです。これは仏教の「中道」や「空」の発想にも通じます。肩の力を抜き、物事を絶対化しないことで、かえって本質が見えてくることがあります。

一方で、「正しさなんて意味がない、全部放り出せ」という投げやりなメッセージでもありません。歌詞の最後には繰り返し「正しく生きろ」とあります。ここには皮肉だけでなく、やはり前向きな励ましが込められているのでしょう。ただしその「正しさ」は、他人や社会が決めたものではなく自分自身で見出した正しさであってほしいのだと思います。仏教でいえば、ブッダがカラマ族に説いたように「他人の教えに盲従せず、自分で確かめて善いと知った道を行け」ということ ([Kalama Sutta: The Buddha's Charter of Free Inquiry])です。受験勉強であれ別の道であれ、自分が納得し心から「これが正しい生き方だ」と思える道を選び、それに従って生きてごらん、と背中を押しているのではないでしょうか。

自分なりに考えて努力した経験は決して無駄にはなりません。それはまさに「正しく生きた」ことの証と言えるでしょう。たとえ周囲から見て遠回りに見える選択をしても、自分の信じる「これが自分にとっての正道だ」という道筋があるなら、人は強く生きていけます。

 

仏教的な自己洞察と成長:

仏教は最終的に、一人一人が自分の心を磨き悟りに至る道です。他人が代わりに悟ってくれることはありません。ですからブッダは「自らを灯火とせよ(自灯明)」とも説きました。『正信士』のメッセージも、ある意味でこのブッダの言葉と響き合っているように思えます。つまり、「自分自身の足元を照らす灯は自分の中に灯せ。他人が掲げる“正しさ”という名の提灯に依存するな」ということです。

受験生のみなさんにとって、大事なのは単に点数や合格だけではなく、自分で考え、選び、行動したという主体性ではないでしょうか。それができれば、たとえ結果が思い通りでなくてもきっと次の道が開けますし、合格できればなおさら胸を張ってその先に進めるでしょう。『正信士』はユニークな曲調と歌詞で、「頑張れ!」という陳腐なエールではなく、「一度自分の“正しさ”について考えてみなよ」という一段深いメッセージを届けてくれる応援ソングなのだと思います。

最後に、この曲の仏教的エッセンスを一言でまとめるなら、「執着せず、疑問を持ち、そして自分の心に誠実に生きよ」ということになるでしょう。正しさに囚われすぎず、それでいて自分なりの筋を持って生きる──それこそが本当の意味での「正しく生きる」ことなのかもしれません。

『正信士』を通じて、自分にとっての「正しさ」とは何かを考えるきっかけが得られれば、きっとそれは仏教の智慧にも通じる学びとなるはずです。凡庸な正解探しではなく、自分自身の人生哲学を築く旅へと、一歩踏み出してみてください。

 

 

 

スペシャルサンクス:

作者 Sohbanaさん https://x.com/Sohbanasick/status/1896472355893084653

 YouTubeのコメントから全部言ってくれるやん賞をありがたく頂戴いたしました

ししさん ([初音ミク『正信士』/Sohbanaに関するひとまずの書き散らし|しし。])

 瑞々しいレビューをみて、これはちょっと私も愛をテキストにしなければと決めました

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